「緊急停止不能! リミッターが……リミッターが物理的に解除されています!」
「馬鹿な! 誰がそんな自殺行為を……まさか!?」
地下深くに建設された巨大素粒子実験施設。
その中央制御室は、紅蓮の回転灯と怒号の渦に包まれていた。
無数のモニターが、臨界点の突破を告げる赤い警告色に染まる中、主任研究員が黄色く濁った高密度鉛ガラスの積層遮蔽窓に張り付いて絶叫した。
「湯川! 貴様、そこにいるのか!? 今すぐ隔壁を開けろ!」
ガラスの向こう、本来なら実験中は誰もいてはならない「第一種立ち入り禁止区域」。
そこに、私──湯川 連(ゆかわ れん)は一人、佇んでいた。
「……遅いよ、君たち」
私は白衣のポケットから、配線を引っこ抜いたセキュリティキーを放り捨てた。
この瞬間、このエリアの制御権は完全に私の手元にある。
「湯川博士! 戻ってください! 遮蔽なしで特異点が発生したら、貴方の体など素粒子レベルで蒸発します!」
スピーカー越しに同僚の悲痛な声が響く。
だが、私は薄く笑うことしかできなかった。
「蒸発? ナンセンスだ。質量保存則を侮ってはいけないよ」
私は彼らに背を向け、全長3キロメートルに及ぶ加速器のチューブを見上げた。
私の計算──異端と嘲笑され続けた『汎・量子もつれ宇宙論』が正しければ、これから生まれるのは、ただのエネルギーの塊ではない。
この宇宙と、対になる宇宙を繋ぐ「へその緒」だ。
それを観測するためなら、安全地帯のモニター越しなど論外だ。
網膜に、直接焼き付けなければ意味がない。
カッッッ!!
空間が悲鳴を上げた。
加速器の中心で、光すら脱出できない漆黒の球体──マイクロ・ブラックホールが産声を上げる。
青白いチェレンコフ光が爆ぜ、周囲の空間がアインシュタインリングを描いて捻じ曲がる。
本来ならホーキング輻射によって瞬時に蒸発するはずの極小ブラックホールは、しかし、不気味なほど安定してそこに鎮座していた。
「ありえない……なぜ消滅しない!? 外部からエネルギー供給を受けているとでもいうのか!?」
制御室の動揺を背中で聞きながら、私は確信に震えた。
そうだ。供給されているのだ。「あちら側」から。
これは壁ではない。扉だ。
メキメキメキッ!
重力制御装置が限界を迎え、実験室の床がめくれ上がる。
圧倒的な潮汐力が、暴風となって私を襲った。
机が、パイプが、そして私の体が、抗えない力で特異点へと引き寄せられる。
「湯川ぁぁっ!!」
誰かの絶叫も、ドップラー効果で間延びした低音へと変わっていく。
私は自ら床を蹴り、漆黒の太陽へとダイブした。
死ぬ。
生物としての本能がそう告げる。
事象の地平線を超えれば、私の肉体はスパゲッティのように引き伸ばされ、原子のスープへと還るだろう。
(痛い、か──?)
いや、違う。
私の思考速度よりも速く、肉体の崩壊は進んでいた。
痛覚信号が脳に届くよりも先に、神経細胞そのものが分解されていく。
ゆえに、痛みはない。
あるのあるのは、全身が「情報」へと還元されていく、奇妙な浮遊感だけ。
視界から色が消え、世界が数式と幾何学模様の羅列へと変わる。
その永遠の一瞬の中で、私は「視た」。
ブラックホールの奥底から、無数に伸びる「金色の糸」を。
空間の裂け目を縫い合わせるように、あるいはこの宇宙そのものを織り上げる経糸のように、無限の金糸が事象の地平線の向こう側へと伸びている。
超弦理論が予言し、私が追い求めた「次元を繋ぐアンカー」。
『重力とは、空間の歪みではない。対の世界との量子もつれの張力である』
私の仮説は、正しかった。
肉体というハードウェアが砕け散る中、私の意識──脳内の量子情報は、消滅するどころか、かつてないほど鮮明に輝いていた。
事象の地平線という巨大な重力レンズによって、私の「情報」は極限まで圧縮され、金色の糸を通って「向こう側」へと送信されていく。
量子複製不可能定理。
完全なコピーを作ることはできない。情報を転送するには、オリジナルの情報を破壊しなければならない。
ならば、これは処刑台ではない。転送装置だ。
私はここで死ぬことによってのみ、あちら側へ到達できる。
(行ってきます、諸君。論文の続きは──向こうで書くことにするよ)
私の意識はホワイトアウトし、特異点の彼方へと吸い込まれていった。
最後に残ったのは、物理学の勝利を確信した、歪んだ笑みだけだった。
「Q.E.D.(証明終了)」
(続く)
コメント