「レイ・カルツァ。貴様の行いは、魔法という聖域への冒涜だ」
翌日。私は放課後の演習場に呼び出されていた。
目の前に立つのは、学院の筆頭魔導教官、ガスト。
燃え盛るような紅髪を逆立て、威圧的な魔力が大気を震わせている。その後ろには、退学届を手にした教務課の職員と、野次馬の生徒たちが群がっていた。
「……冒涜?心外だな。僕はただ、物理現象を最適化しているだけだ」
「抜かせ!共振で校舎を揺らし、スライムの核を撫でて抜く……そんなものは魔道ではない。卑怯な小細工だ!」
ガストが杖を突きつけた。先から、凄まじい熱波が放射される。
「魔法とは『意志』の力だ。燃え上がる情熱こそが火を熾し、不屈の精神こそが嵐を呼ぶ。貴様の冷めた理屈など、私の『熱』で焼き尽くしてやろう。……決闘だ。貴様が負ければ、即刻退学。研究室も解散だ」
リックが顔を青くして私の袖を引く。
「おい、レイ、やめとけ!ガストの旦那は王宮魔導士の予備軍だぞ。魔力量が桁違いだ!」
私はリックを制し、一歩前に出た。
「いいだろう。ただし、僕が勝てば、僕の研究を『公認』し、必要な資材の予算を認めさせる」
「フン……死ななければな。……焼き尽くせ!大紅蓮爆炎(インフェルノ・フレア)」
ガストが吠えた。
瞬間、演習場の空気が膨張し、太陽が地上に降りたかのような巨大な火球が形成される。
名前は似ているが、家庭教師だったガストン先生とは比較にならない出力。純粋な魔力量による、力押しの熱エネルギーだ。
(ほう。推定温度1500度。だが、規模が大きすぎてエネルギー密度が分散しているな)
私はボブに視線を送った。
「ボブ、熱量収支の予測を」
「完了。1400万通りの未来を検索したが、結果はすべて同じだ。出力が過剰すぎて、僕たちの計算尺じゃ測定すらできない。……あはは、笑えるほど非効率だよ」
「十分だ。アリス、『外部干渉』を遮断しろ。この空間の波動関数を僕の演算に固定するんだ」
「は、はいぃっ!隔離領域、展開しますっ!」
火球が放たれた。地表を焼き、空気を歪めながら迫り来る焔の波。
私は杖すら持たず、ただ右手を突き出した。
「無駄だ!貴様の小癪な障壁ごと、消し炭になれ!」
ガストの怒号。しかし、私は笑った。
「教官。エネルギーは、決して消えない。だが──『偏る』ことはできる」
(熱力学第二法則。エントロピー増大の法則。……だが、局所的にそれを逆行させる)
私は火球の通り道にある「金色の糸」を捕捉。
空気を重力場に閉じ込め、一気に「断熱膨張」させた。
体積を瞬時に数千倍に膨らませ、ジュール=トムソン効果による急激な温度降下を発生させる。
シュウゥゥゥゥッ!!
迫り来る紅蓮の炎が、私の数メートル手前で、まるで目に見えない壁に衝突したかのように勢いを失った。
いや、勢いを失ったのではない。「熱」を奪われたのだ。
「なっ……!?私の炎が、消えるだと!?」
「いいえ。気体の膨張仕事にエネルギーを奪われ、統計学的な運動エネルギーが低下しただけだ。要するに──ただのぬるま湯ですよ」
だが、ここからが「筆頭教官」の意地だった。
ガストは怯むどころか、瞳に血走った血管を浮かび上がらせ、杖をへし折れんばかりに握りしめた。
「理屈など……知るかぁぁぁッ!!」
ゴオオオオオッ!!
消えかけた炎が、再び鎌首をもたげた。
ガストの全身から、オーラのような魔力が噴出する。
彼は物理法則による冷却を、自らの魂を削るような魔力供給量でねじ伏せようとしていた。
「冷えるなら、燃やせばいい!消えるなら、足せばいい!これが魔法だ!私の情熱は、貴様の計算式ごときでは止まらん!!」
「……ほう」
私は少しだけ感心した。
非効率だ。あまりに非効率だが、その出力は私の想定を超えている。彼は今、エントロピーの増大を、根性という名のエネルギー注入で無理やり逆流させているのだ。
「いいでしょう。その熱量、敬意を表します」
私は眼鏡の位置を直し、冷徹に告げた。
「ですが、それは悪手だ。貴方は今、この閉じた系の中でエネルギーを増やしすぎた」
私はガストが放つ魔力供給路を逆手に取る。
「君の魔法は『意志』で維持されている。なら、その意志をかき乱せばいい」
(ボブ、座標指定。負のエントロピーを注入しろ)
「了解。……すごい熱量だ。これ、下手すると爆発するよ?」
「構わない。逃げ場を塞げ」
ボブの並列演算により、ガストが一点に集中させていた熱のベクトルが、四方八方へとバラバラに引き裂かれた。
さらに、私はガストの周囲の空間を、多重の重力場ですっぽりと包み込んだ。
「ぐ、おおおおお!?も、燃える……!?」
ガストの表情が苦悶に歪む。
彼が吐き出した莫大な熱エネルギーが、外へ逃げることを許されず、すべて術者である彼自身へと跳ね返り始めたのだ。
「貴方は熱を出しすぎた。そして私は、その熱の逃げ場を塞いだ」
「ば、馬鹿な!私の炎が……私の意志に従わないだと!?私は筆頭教官だぞ!この私が……たかが数字遊びにぃぃぃぃッ!」
ガストは叫びながら、さらに魔力を注ぎ込む。だが、注げば注ぐほど、その熱は彼自身を焼く業火となる。
プライドが高いゆえに、彼は魔法を止めることができない。止めれば負けを認めることになるからだ。
「どんなに熱を注ぎ込んでも、熱源と外界が熱平衡に達すれば、魔法は成立しない。……自滅ですよ」
ボシュゥゥゥン……!
限界を超えた熱気の中で、ついにガストの意識が途切れた。
術者の気絶に伴い、制御を失った爆炎が情けない音を立てて霧散する。
後に残ったのは、自身の熱で全身を蒸し焼きにされ、茹でダコのように赤く腫れあがって倒れ伏す筆頭教官の姿だった。
演習場が静まり返る。
精神論の怪物が、物理法則という冷たい檻の中で燃え尽きた瞬間だった。
「……Q.E.D.」
私は煤けた白衣を叩き、呆然としている教務職員に歩み寄った。
「決闘は僕の勝ちだ。退学届はシュレッダーに。そして、約束の公認予算を全額承認してもらう」
「あ、ああ……承知した……」
私は、倒れたガストを見下ろし、静かに告げた。
「素晴らしい出力でした、教官。情熱で火は熾せますが、その火を制御するのは、情熱ではなく数式です。……次は熱力学の講義でお会いしましょう」
こうして、私たちは学院の正式な公認組織として認められた。
名実ともに、私たちの「研究室」が誕生したのだ。
だが、その日の夜。
手に入れたばかりの「第4廃校舎」の扉を開けた私たちは、言葉を失った。
「……汚ねぇ」
リックが呻く。
そこは研究室というより、ただの巨大なゴミ捨て場だった。
予算は承認されたが、入金は来月。
私たちは「ゼロ」から、いや「マイナス(掃除)」から、物理学の城を築かねばならない現実を突きつけられたのだった。
(続く)
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