第14話 トンネル効果の壁

ラボの机には、薄くスライスされ、鏡のように磨き上げられたシリコンの円盤──「ウェハー」が並んでいた。
私はその一枚をピンセットでつまみ、光にかざしてチェックする。

「……表面粗さ、ナノレベルで合格。次は『熱酸化』だ。ウェハーの表面に薄いガラスの膜、絶縁膜を作る」

「絶縁膜?電気を通さない壁ってことか?」

リックが横から覗き込む。

「そうだ。電子という暴れ馬を制御するには、頑丈な『壁』が必要なんだ。だが、この壁が薄すぎると、電子が勝手に壁をすり抜けてしまう。……今の彼女のようにな」

私は視線をラボの隅に向けた。

ドガンッ!!

盛大な衝突音と共に、アリスがコンクリートの壁に激突し、尻餅をついていた。

「うぅ……痛いですぅ……」

「アリスちゃん、これで十連敗だね。壁に埋まらなかっただけマシかな」

ボブが冷ややかなデータを読み上げる。
アリスは今、私の指示で「透過魔法(すり抜け)」の特訓をしている。
彼女の不確定性魔法(シュレディンガーの猫)を応用し、物理的な障害物を無視して移動する技術だ。これが完成すれば、どんな金庫も要塞も素通りできる。

私はウェハーを置き、涙目のアリスに歩み寄った。

「アリス。なぜ壁にぶつかるか分かるか?」

「き、気合いが足りないからでしょうか……?」

「違う。『パウリの排他原理』だ」

「ぱうり……?」

私は黒板に二つの円を描いた。

「この世界にある物質は、フェルミ粒子というグループに属している。これらは『同じ場所に、同じ状態の粒子は二つ存在できない』という絶対的なルールを持っている。君の手が壁に触れたとき、君の原子と壁の原子の周りにある電子雲同士が反発し合う。だから『ぶつかる』んだ。これが物質の硬さの正体だ」

「はぁ……つまり、仲が悪いんですね?」

「まあ、そうだ。だが、量子力学の世界には裏技がある」

私はチョークで壁の向こう側に矢印を引いた。

──『トンネル効果』だ。

「粒子が波としての性質を持ったとき、本来なら越えられないエネルギーの壁を、確率的に『すり抜けて』向こう側に移動してしまう現象だ。僕が作ろうとしている半導体では、これが起きると困るが、君の場合はこれを意図的に起こすんだ」

「確率的に……すり抜ける……」

「そうだ。君は自分を『固形物』だと思うな。『確率の波』だと定義しろ。壁の前で存在確率を拡散させ、壁の向こう側での再出現確率を観測するんだ」

アリスは真剣な表情で頷き、再び壁に向き合った。
杖を握りしめ、呼吸を整える。

「私は波……私は波……壁なんてない……」

彼女の輪郭がブレ始める。
不確定性魔法の発動。彼女の存在が「ここにある」状態と「あそこにある」状態の重ね合わせになる。

「いまだ、踏み込め!」

アリスが壁に向かって走る。
衝突音はしなかった。彼女の体は、まるで水に沈むようにコンクリートの壁へと吸い込まれていく。

「おぉっ!入ったぞ!」

リックが叫ぶ。
だが、その直後。アリスの悲鳴が上がった。

「れ、レイ様!動けません!体が……壁の中で止まっちゃいます!」

「まずい!波動関数の収束が早すぎる!」

ボブが顔色を変えた。

「レイ君!波動関数の収束が早すぎる!このままだと彼女の座標が壁の内部で固定されちゃうよ!」

「固定されるとどうなる!?」

「空間の重複エラーだ!壁と彼女、どちらかが世界から弾き出されて消滅する!」

「くっ……!」

(違う、消滅だけじゃない。パウリの排他原理が働けば、彼女の原子と壁の原子が混ざり合い、コンクリートの中に血管が縫い付けられる……『フィラデルフィア実験』の悪夢だ!)

「落ち着け!アリス、『観測』を切るな!」

私は即座にアリスの背後(壁の外に残っている部分)に手を触れ、彼女の座標に干渉した。
壁の中で怯える彼女の意識を、私の演算で強制的にガイドする。

(座標修正。確率密度分布を前方へシフト。ポテンシャル障壁を透過係数T=1.0へ書き換えろ!)

「イメージしろ、アリス!君はそこに『いない』!君がいるべき場所は、壁の向こう側だ!」

私の魔力が、彼女の迷いをねじ伏せる。
アリスの体が再び光の粒子のように揺らぎ──

シュンッ

彼女の姿が、完全に壁の中に消えた。
一瞬の静寂。
次の瞬間、壁の裏側から「きゃっ!」という声と、ドサッという音が聞こえた。

私たちは慌てて部屋を出て、壁の裏側へ回った。
そこには、尻餅をつきながらも、五体満足で存在しているアリスの姿があった。

「あ、アリス!」

「……レイ様……私……」

彼女はおそるおそる自分の手足を確認し、無事だと分かると、安堵で涙を流して私に抱きついてきた。

「うわぁぁぁん!怖かったですぅぅ!壁と一体化するかと思いましたぁ!」

「……よくやった。完璧なトンネル効果だったぞ」

私は震える彼女の頭を撫でた。
冷や汗が背中を伝う。一歩間違えば、彼女は永遠に「壁のシミ」になるところだった。

「これですり抜けはマスターしたな。……だが、実戦で使うときは僕が観測している時だけにしろ。ソロでの使用は禁止だ」

「は、はいぃ……、一生ついていきますぅ……」

抱きついて離れないアリスを、リックとボブが生温かい目で見守っている。

「やれやれ。物理学の特訓なんだか、愛の試練なんだか」

「ま、壁を越えたんだ。次はもっと高い壁(ラブコメ)が待ってるんじゃない?」

二人の雑談を無視し、私はアリスを引き剥がした。
彼女がトンネル効果をマスターしたということは、私の理論、量子力学による魔法定義がまた一つ実証されたということだ。

そして、この原理は──これから作るCPUの「ゲート絶縁膜」の厚さを決定する上でも、重要なデータとなる。

「さあ、実験再開だ。アリス、次は『絶縁膜』のように、何も通さない壁を作る練習だ」

「えぇぇ……鬼ぃ……」

半導体製造と魔法特訓。
私たちのラボは、今日も物理法則の限界に挑み続けている。

 

(続く)

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