第15話 観測者のジレンマ

実験室の空気が、甘い香りで満たされている。
アリスが休憩用のお茶と、手作りのクッキーを運んできたからだ。

「レイ様、少し休みませんか?リソグラフィの設計図、もう三日も睨めっこしたままですよ」

アリスが心配そうに覗き込んでくる。
私は顔を上げ、強張った首を鳴らした。

「……ああ、ありがとう。微細加工の露光パターンに手こずっていてね。シリコンウェハーに回路を焼き付けるには、ナノメートル精度の『光の型紙』が必要なんだ」

私はクッキーを一枚口に放り込んだ。甘さが脳に染み渡る。
アリスは嬉しそうに微笑み、私の隣にちょこんと座った。
トンネル効果の特訓以来、彼女の距離感が妙に近い。
いや、物理的な距離だけでなく、精神的な依存度が上昇している気がする。

「あの……レイ様」

「ん?」

「私、少し自信がついたんです。壁をすり抜けた時、レイ様が私を『観測』してくれたおかげで、自分がどこにいるべきか分かった気がして」

アリスがもじもじと指を絡ませる。

「でも、ふと怖くなるんです。レイ様にとって、私はただの実験材料なのかなって。……もし私が『不確定性魔法』を使えない普通の女の子だったら、レイ様は私を拾ってくれませんでしたか?」

不意打ちの質問だった。
実験台の隅で、リックとボブが「おっ、始まったぞ」「青春だねぇ」とニヤニヤしながら聞き耳を立てているのが視界の端に見える。

私は紅茶を飲み下し、真面目に考えた。
確かに、私が彼女に興味を持ったきっかけは、彼女の特異な魔力波形だ。
だが、今の彼女はそれだけの存在ではない。

「アリス。量子力学には『観測者問題』という難問がある」

「かんそくしゃ……?」

「ああ。シュレディンガーの猫の話をしただろう?箱の中の猫は、生きている状態と死んでいる状態が重なり合っている。だが、誰かが箱を開けて『観測』した瞬間、世界は一つの結果に収束する」

私は彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。
オッドアイの瞳。右の赤と、左の青。それは混沌とした可能性の象徴だ。

「僕はこの世界に来て、ずっと孤独な観測者だった。すべての現象を数式で分解し、冷徹に定義してきた。……だが、君だけは違う」

私は彼女の手を取り、その掌にある特訓の痕跡のマメを指でなぞった。

「君の振る舞いは、僕の予測を常に裏切り続ける。壁をすり抜けたり、転んだり、笑ったり。君という変数は、どんなスーパーコンピュータでも計算不能だ」

「そ、それって……迷惑ってことですか……?」

アリスが泣きそうな顔になる。

「逆だ。君はこの宇宙で最も興味深い『特異点』だ」

私は熱っぽく語った。これは科学者としての最大級の賛辞だ。

「君がいるから、僕は退屈しない。君の不確定な揺らぎこそが、僕の理論を完成させる最後のピースなんだ。……だから、たとえ君が魔法を使えなくても、僕は君を観測し続けるだろう。君という現象そのものが、僕にとってのかけがえのない『真実』だからだ」

沈黙。
実験室が静まり返る。
私は完璧な論理で答えたつもりだった。
だが、アリスの反応は予想外だった。

ボッ!!

アリスの顔が、真っ赤に沸騰した。
いや、比喩ではない。彼女の周囲の空間が赤く発光し、蒸気が上がり始めたのだ。

「え……あ……うぅ……!」

「アリス?どうした?体温が急上昇しているぞ」

「れ、レイ様が……私が……かけがえのない……真実……!」

彼女の脳内で、私の言葉がとんでもない翻訳をされたらしい。

──『君が好きだ。一生離さない。君なしじゃ生きられない』

アリスの瞳がグルグルと回り、許容量を超えた。

「は、はいぃぃぃぃッ!わ、私も!私もレイ様のこと、だ、だだだ大好きですぅぅぅ!!」

ドカンッ!!

彼女の羞恥心が臨界点を超え、不確定性魔法が暴走した。
彼女の姿が激しく点滅し、確率の霧となって拡散する。

「わ、わわっ!アリスちゃんが消えたり現れたりしてる!?」

リックが叫ぶ。

「まずいよレイ君!彼女の波動関数が『恥ずかしさ』で発散してる!このままだと彼女、『照れ隠し』のために次元の彼方へ消えちゃうよ!」

「なんだそれは!待てアリス、観測を拒否するな!実体を維持しろ!」

「む、無理ですぅぅ!顔が見れませんんんん!」

半透明になったアリスが、実験室の中を高速で飛び回る。
私は慌てて重力制御を展開し、暴走する素粒子(アリス)を捕獲しようと走り回った。

一時間後。
ようやく実体を取り戻したアリスは、隅っこで膝を抱えて丸まっていた。
耳まで真っ赤だ。

「……はぁ。実験より疲れた」

私は乱れた白衣を直した。

「罪な男だなぁ、レイは」

リックがニヤニヤしながら私の肩を叩く。

「あれだけの口説き文句、王都のプレイボーイでも言えねぇぞ?『宇宙で一番』だなんてよ」

「事実を述べただけだ。彼女以上のカオスな存在は観測されていない」

「はいはい、そういうことにしておいてやるよ」

私は肩をすくめた。
何はともあれ、チームの結束は強まったようだ。

私は机に戻り、シリコンウェハーを手に取った。
さて、次はいよいよ「リソグラフィ」だ。
アリスという予測不能な「特異点」を制御するためにも、私にはもっと強力な演算装置が必要だ。

このウェハーに、ナノメートルの迷宮を刻み込む。
それは、アリスの乙女心を解析するよりは、いくらか簡単な作業に思えた。

 

(続く)

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