「……汚い。あまりにも汚い」
翌朝。ラボの扉を開けた私は、絶望的な声を上げた。
昨日のアリスのランダムウォーク、もとい暴走により、床には埃が舞い、空気中には無数の微粒子が浮遊している。
人間には綺麗な部屋に見えるかもしれない。だが、ナノメートルを扱う半導体製造において、これはゴミ捨て場と同じだ。
「え、掃除しましたよ?」
アリスがきょとんとしている。
「目に見えないゴミが問題なんだ。直径0.5ミクロンの粒子一つで、僕がこれから作る回路は全滅する」
私は白衣を脱ぎ捨て、全員に「クリーンスーツ(と称した全身を覆う白ローブ)」を着用させた。
「いいかい。これよりこの部屋は『クラス1・クリーンルーム』となる。アリス、部屋の気圧を上げろ。外気が絶対に入らないよう、常に風を外へ吹き出し続けるんだ」
「は、はいっ!陽圧結界、展開!」
「ボブ、静電気を除去しろ。埃がウェハーに吸着するのを防ぐ」
「了解。電位差をゼロに固定するよ」
徹底的な環境構築。
その中央に、私はシリコンウェハーをセットした。
表面には、錬金術で精製した「感光性樹脂」が塗られている。
「さあ、儀式の始まりだ」
私は実験台の上に、複雑な幾何学模様を描いたガラス板を設置した。
この微細なパターンを、光でシリコンに焼き付ける。
だが、普通の光では波長が長すぎて、ナノレベルの影絵は作れない。
「必要なのは、極限まで波長の短い光……『極端紫外線(EUV)』だ」
私は両手にマナを集中させた。
狙うのは、波長13.5ナノメートル。可視光線よりも遥かにエネルギーが高く、空気すら吸収してしまうほどの「見えない光」。
「全員、絶対に光を見るな!網膜が焼けるぞ!」
私はゴーグルを装着し、詠唱という名の物理定義を開始した。
「励起状態、プラズマ生成。スズ液滴へのパルス照射……!」
カッッッ……!!
私の手元から、強烈な紫色の閃光がほとばしった。
実際にはEUVは目に見えないが、副次的に発生したプラズマ光が、ラボの窓から外へと漏れ出した。
「開口数(NA)0.33……レイリーの限界式を突破……重力レンズ、縮小投影!」
私は上空の空気密度をナノ単位で歪め、光の経路を絞り込む。
神の筆先のような極細の光が、ウェハーの上に回路図を刻み込んでいく。
その頃。廃校舎の外では、異変が起きていた。
「おい見ろ!あの『変人ラボ』から、とんでもない光が出てるぞ!」
休み時間の生徒たちが、窓から漏れ出す禍々しくも神々しい「紫の光」に釘付けになていた。
さらに、中からはレイの詠唱(物理用語)が朗々と響いてくる。
『……事象の地平線……特異点……干渉縞の収束……!』
生徒の一人が、震える声で呟いた。
「き、聞こえたか?『イベント・ホライゾン』……確か、古代語で『神の領域』って意味だろ?」
「すげぇ……カルツァの奴、地下で魔神と交信してやがるのか?」
「あの光、直視すると目が潰れるらしいぞ。禁断の秘術だ!」
噂は尾ひれをつけ、瞬く間に膨れ上がった。
入学試験の見えない熱線の魔法、そして先日のガスト教官撃破。
それらの実績が、この怪しい儀式と結びつき、生徒たちの中でレイは「変人」から「深淵を覗く者」へと昇格してしまったのだ。
「レイ様……素敵……!」
「あの方こそ、魔法の真理に到達した賢者だわ!」
野次馬の中にいた数人の女子生徒が、うっとりと手を組んで祈り始めた。
それに釣られて、男子生徒たちも興奮気味に拳を握る。
その熱狂を、商人の目ざとい息子が見逃すはずがなかった。
「おーい!そここの君たち!レイ様の『儀式』をもっと近くで見たくないか?」
リックが白衣姿で、校舎の入り口に立っていた。手には即席の木箱がある。
「これより先は危険区域だが、特別に『親衛隊』に入隊すれば、最前列での見学を許可しよう。入会金はたったの500プランク。さらに今なら、レイ様が計算に使った『聖なるメモ切れ端』のお守り付きだ!」
「入ります!」
「俺もだ!」
「私、全財産出します!」
プランク貨が雨のように投げ込まれる。
リックは満面の笑みで会員証(ただの紙切れ)を発行し始めた。
「……露光、完了」
数時間後。
私は虹色に輝くウェハーを、慎重に「真空保管ケース」に格納し、密閉した。
これで空気中の塵からは守られる。
私は大きく息を吐き、除染室を経由して、更衣室(準クリーンエリア)へと移動した。
ガラス越しに見える廊下が、やけに騒がしい。
「……なんだ?」
私が分厚いガラス窓から廊下を覗くと、そこには信じられない光景が広がっていた。
数百人の生徒たちが整列し、このラボに向かって敬礼しているのだ。
最前列には「レイ様親衛隊・隊長」と書かれたタスキをかけた女子生徒がいる。
「総員、敬礼ッ!レイ様に栄光あれ!」
『栄光あれぇぇぇッ!!』
分厚い防音ガラスを突き抜けて、熱狂的な叫びが聞こえてくる。
「……は?」
私が思考停止していると、更衣室のインターホンが鳴った。
モニターに、満面の笑みのリックが映る。
『よぉ教祖様。お疲れのところ悪いが、窓から手くらい振ってやれよ。お前が紫外線をビカビカさせてる間に、活動資金が倍になったぜ』
「リック、貴様……何を吹き込んだ?それに、そいつらをラボに近づけるな!呼吸に含まれる水蒸気と皮脂汚れで、歩留まりが下がるだろうが!」
私はインターホンのマイクに向かって怒鳴りつけた。
だが、リックはどこ吹く風だ。
『何も?ただ「真理を探究する集い」を作っただけさ。……安心しろ、ここから先は「聖域」だ。一歩たりとも近づけさせねぇよ』
窓の外を見ると、リックが作成した結界の向こうで、生徒たちが涙を流して私を拝んでいる。
私は頭を抱えた。
物理学を広めるつもりはあったが、カルト宗教を興すつもりはなかった。
だが、手元の保管ケースを見つめ直す。
「……まあいい。資金が増えるなら文句はない」
こうして、私の知らぬ間に「レイ様親衛隊」が結成された。
彼らは後に、私が加速器を作る際の「労働力(ただしクリーンルーム外に限る)」として大いに役に立つことになるのだが、それはまだ先の話だ。
私はブラインドを乱暴に下ろし、再びクリーンルームの奥へと戻った。
外の熱狂など知ったことか。
ここには私と、静寂なるシリコン原子だけがいればいい。
(続く)
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