第2話 重力の糸が見える世界

思考する。ゆえに、我あり。
デカルトの言葉が、泥のような意識の底から浮上する。

……私は、生きているのか?
事象の地平線を超え、情報へと分解され、特異点という名のシュレッダーにかけられたはずの私が?

ゆっくりと、感覚が戻ってくる。
だが、それはかつての肉体の感覚とは決定的に異なっていた。

重い。手足が、鉛のように重い。
いや、違う。筋肉の出力係数が、著しく低下しているのだ。

「オギャ……ア……」

口から漏れたのは、言語ではなく、頼りない啼き声だった。
声帯が未発達だ。肺活量も足りない。

私は、重いまぶたを無理やり押し上げた。
網膜に光が飛び込んでくる。焦点が合わない。視界が白く濁っている。

だが、そのボヤけた視界の中に、私は「それ」を視認し、息を呑んだ。

(なんだ、これは……)

世界中が、金色の光で満たされていた。
いや、光ではない。糸だ。

天井から、壁から、そして自分の小さな指先から。
あらゆる物質から、無数の金色の糸が伸び、空間を埋め尽くしている。

それは、死の直前にブラックホールの中で見た「量子もつれの糸」と同じものだった。
だが、決定的な違いが一つある。

(……たるんでいる?)

ブラックホールの中で見た糸は、断ち切れる寸前までピンと張り詰め、悲鳴を上げていた。

地球という世界においても、私が計算上で予測していた「もつれ」は、極限の高張力状態で空間を縛り付けていたはずだ。
だからこそ、地球の物理法則は堅牢であり、重力は絶対的な檻として機能していた。

しかし、ここの糸はどうだ。
まるで使い古されたゴム紐のように、緩く、頼りなく波打っている。
微風に揺れる柳のように、空間に漂っているのだ。

(仮説。ここは地球ではない。物理定数のパラメータが異なる座標系──私の理論における『対の世界』だ)

心拍数が上がる。
証明された。私は転移したのだ。

同時に、強烈な目眩が私を襲った。
脳が悲鳴を上げている。
視界に入る全ての物質座標と「糸」の情報を処理するには、この未発達な脳ではスペック不足なのだ。

私は無意識に情報のフィルタリングを行い、必要な糸だけを「注視」するように意識を切り替えた。

その時、巨大な巨人の顔が覗き込んできた。

「──あなた、見て。目が開いたわ」

「おお、なんと愛らしい……! 我が家の三男坊、レイだ」

言語中枢が自動翻訳を行う。
英語でも日本語でもないが、意味は理解できる。
どうやら、彼らがこの世界の私の「製造元」らしい。

レイ。それが私の新しい識別子か。

状況は把握した。次は身体機能のチェックだ。
右手を動かそうとするが、神経伝達速度が遅い。幼児特有の未完成なミエリン鞘のせいだ。

その時、強烈な空腹信号と、脳の糖分欠乏のアラートが鳴り響いた。
視界情報の処理だけで、カロリー消費が激しすぎる。補給が必要だ。

視線を巡らせる。
ベビーベッドの柵の向こう、サイドテーブルの上に、白い液体が入った瓶が見える。
距離、約1.5メートル。

現在の私の運動能力では、到達不可能な距離だ。

(泣いて彼らを呼ぶか? ……いや、非効率だ)

私は物理学者だ。問題解決には常に最短の解を選択する。
私の視界には、あの「金色の糸」が見えている。
私の右手と、あの哺乳瓶は、一本のたるんだ糸で繋がっている。

地球では、この糸は鋼鉄のように硬かった。
だが、この世界の糸は「ゆるゆる」だ。
ならば──巻き取れるのではないか?

私は右手を伸ばし、意識を集中させた。
筋肉を使うのではない。脳の演算領域を使って、空間の座標データを書き換えるイメージ。

たるんだリールのハンドルを回すように。
あそびのある糸を、ピンと張るように。

(エンタングルメント・テンション、増大)

私の瞳の奥で、金色の幾何学模様が回転した。
瞬間、視界の中の糸が「キュッ」と収縮する。

シュパッ!

風切り音と共に、サイドテーブルの哺乳瓶が、吸い寄せられるように私の手元へ飛んできた。

初速にして秒速10メートル以上。
このままでは私の軟弱な掌に激撃し、ガラス瓶が砕けるか、私の手骨が折れる。

(運動エネルギーのキル──慣性制御!)

私は衝突のコンマ1秒前、巻き取った糸をわずかに「逆回転」させた。
空間のブレーキ。

急激な減速Gがかかり、哺乳瓶は私の鼻先数センチでピタリと静止し、ふわりと掌の上に落下した。

ソフト・ランディング成功。

「え……?」

「な、なんだ今のは!?」

両親が目を見開いて凝固している。
無理もない。彼らの視点では、生後間もない赤ん坊が、離れた場所にある物体を「高速で引き寄せ、寸前で止める」という高度な魔法制御を行ったように見えただろう。

だが、これは魔法ではない。
糸の張力操作による、座標移動と慣性制御だ。
地球の物理学者なら誰でも計算できる、単純な力学現象だ。

(ふぅ……燃費が悪いな)

たったこれだけの演算で、視界がチカチカする。
脳の糖分が枯渇しかけている。

私は両親の驚愕を無視し、哺乳瓶の乳首をくわえ、必死に栄養補給を開始した。
温かいミルクが食道を通って胃に落ちていく。
その熱エネルギーを感じながら、私は確信した。

ここは天国でも地獄でもない。
もっと素晴らしい場所だ。

ここは、重力を手で掴める「実験室」だ。

 

(続く)

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