第22話 先駆者のログ

「……なあレイ。さっきから壁のシミを見て何をブツブツ言ってるんだ?」

リックが、保温結界の中で震えながら尋ねてきた。
私は、加速器の制御室とおぼしき壁面に刻まれた、黒い煤のような文字を指でなぞっていた。

「シミじゃない。これは文字だ」

「文字?古代語か?俺にはミミズがのたうち回ってるようにしか見えねぇけど」

「無理もない。これは、この世界には存在しない言語だからな」

そこにあるのは、紛れもない「日本語」だった。
数百年前、私と同じように事象の地平線を越え、この世界に漂着した物理学者が残した、魂の叫び。
私はカンテラの光を近づけ、その走り書きを読み上げた。

「……読んでやるよ。先駆者の遺言を」

『西暦2045年、CERN(欧州原子核研究機構)所属、高エネルギー物理学部門、相沢(アイザワ)』

冒頭の一行で、私の背筋に電流が走った。
2045年。私のいた時代より少し未来。そしてCERN。
彼は、私の直系の先輩だったのだ。

『私は実験中の事故により、この座標へと転移した。ここは魔法という非論理的な力が支配する世界だ。だが、私は諦めなかった。魔法もまた、物理現象の一種であるはずだ。私はそれを証明するために、この地下施設を建造した』

壁には、びっしりと数式が書き込まれていた。
シュレディンガー方程式、マクスウェルの方程式、そして一般相対性理論。
地球の物理学が、この異世界でも通用することを証明する計算式たち。

『結論から言おう。この世界は、地球と対になっている。重力定数のズレ、微細構造定数のゆらぎ……全てが示している。我々は、ブラックホールを挟んで「量子もつれ」の状態にある双子の宇宙にいるのだ』

「……!」

私は息を呑んだ。
私の仮説──「汎・量子もつれ宇宙論」と同じだ。
彼は数百年前に、すでにこの真理に到達していたのだ。

「レイ君、どうしたんだい?顔色が悪いよ」

ボブが心配そうに覗き込む。

「……いや、武者震いだよ。僕の理論が正しかったと、過去からの査読が返ってきた気分だ」

私は続きを読む。文字は後半に行くにつれ、乱雑に、そして絶望的になっていく。

『だが、実験は失敗した。技術的な問題ではない。「教会」だ。彼らは私の理論を異端とし、研究を弾圧した。加速器の心臓部である「ドラゴン・ハート」と、筋肉である「ミスリル・コイル」その全てを、奴らは「神への冒涜」として没収していった』

壁に残された筆跡が、激しい怒りで深くなっている。

『悔しい。あと一歩だった。あと少しで、重力波を使って地球へ信号を送れたはずなのに。この世界が「箱庭」ではなく、広大な宇宙の一部であることを証明できたはずなのに』

そして、ログは最後の一文で締めくくられていた。

『後継者よ。もし君が、私と同じように星の海を越えてきた同胞であるならば。どうか、私の夢を継いでくれ。神などいない。あるのは物理法則だけだ。それを証明してくれ』

「……以上だ」

私が読み終えると、冷たい地下空間に静寂が落ちた。
アリスが、悲しげに瞳を揺らしている。

「その人……一人ぼっちで、悔しかったでしょうね……」

「ああ。誰にも理解されず、狂人として扱われ、最後は全てを奪われた。科学者として、これほど惨めな最期はない」

私は壁に手をついた。
冷たい石の感触。だが、そこには確かな熱が残っていた。

「でも、彼は間違っていたことが一つある」

私は振り返り、仲間たちを見た。
パンツ一丁で震える商人。
心配そうに見つめる少女。
冷静に状況を分析する眼鏡の秀才。

「彼は一人だった。……だが、僕にはチームがいる」

先駆者・相沢。
貴方の無念は、私が引き受けた。
貴方が教会に奪われたパーツは、私たちがダンジョンから奪い返す。
そして必ず、この空っぽのフレームに火を入れてみせる。

「……行くぞ」

私はカンテラを掲げ、出口へと向かった。

「えっ、いいのかレイ?お宝とか、もっと探さなくて」

「ああ。ここにはもう何もない。だが、やるべきことは決まった」

私は、暗闇の中に鎮座する巨大な円環を最後にもう一度振り返った。
それは墓標のようにも見えたが、今は産声を上げるのを待つ揺り籠のようにも見えた。

「待っていろ、未完成の巨人。
次にここに来る時は、最高のご馳走を食わせてやる」

静寂だけが支配する地下施設。
私たちは、確かな決意と共に、その冷たい扉を閉じた。

 

(続く)

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