その日の午後。森の地面は、昨夜の雨を含んで冷たく湿っていた。
暗殺ギルドの長、シャドウは、泥にまみれて這いつくばっていた。
鼻先をかすめるのは、腐葉土のカビ臭さと、湿った苔の青臭い匂い。
頬には冷たい泥がへばりつき、服の中を不快な湿気が這い回る。
(……俺は、影だ。誰にも認識されない、世界の染みだ)
彼は自嘲気味に独りごちた。
宮廷魔導師ゼルからの指令は、「騎士団長を骨抜きにした『魔女』の監視」。
対象は、花摘みをしている猫耳の少女だ。
シャドウは固有スキル『隠密EX』を発動していた。
心拍数を極限まで落とし、体温を周囲の気温と同化させ、存在感を「石ころ以下」に消す。
たとえ熟練の騎士が横を通っても、彼がそこにいることに気づかないだろう。
ズリ、ズリ……。
彼は無音の匍匐(ほふく)前進で、少女の背後へと忍び寄る。
距離、あと2メートル。
暗殺者の間合いだ。
その時。
ピタッ。
少女の足が止まった。
くるりと振り返り、あろうことかシャドウが潜んでいる地面を、まっすぐに見下ろしたのだ。
(……ッ!? 気づかれたか!?)
シャドウの背筋が凍りついた。
バカな。俺の隠密は完璧なはずだ。
呼吸も、殺気も、魔力も完全に遮断している。
それなのに、なぜ目が合う?
少女がゆっくりとしゃがみ込む。
琥珀色の大きな瞳が、シャドウの顔の目の前――鼻先わずか数センチの距離まで迫った。
近い。
日向のような甘い香りが、腐葉土の臭いを塗り替えていく。
シャドウは心臓が口から飛び出しそうなのを必死で堪え、硬直した。
殺されるか?
それとも、正体を暴かれ、嘲笑されるのか?
緊張が限界に達した、その瞬間。
少女はふわりと微笑んだ。
「お仕事、おつかれさまです」
鈴を転がすような、優しい声だった。
「重いのに、えらいねぇ。ふふっ、がんばり屋さんだね」
(……なっ……?)
シャドウの思考が停止した。
労われた?
この俺を?
ドロドロの泥にまみれ、地を這う薄汚い暗殺者を、「えらい」と褒めたのか?
「これ、どうぞ。元気だしてね」
コトン。
少女はポケットから、包み紙に入った小さな「焼き菓子」を取り出し、シャドウの目の前の地面に置いた。
そしてニコニコと手を振ると、再び花摘みへと戻っていった。
残されたのは、呆然とするシャドウと、甘い匂いを放つ焼き菓子だけ。
「……あ……あぁ……」
シャドウの震える手が、泥だらけの指でその菓子を拾い上げた。
ただの安っぽいクッキーだ。
だが、今の彼には、王侯貴族のどんな褒章よりも輝いて見えた。
(見えていたんだ……。俺の『隠密』を見破った上で……俺という存在を認めてくれたのか……)
これまで「道具」として扱われ、誰からも人間扱いされなかった孤独な人生。
その闇に、初めて光が差した気がした。
「……いただきます」
彼は泥のついたまま、クッキーを口に運んだ。
サクッ。
口の中に広がる、砂糖とバターの素朴な甘さ。
そして、しょっぱい涙の味。
「うっ……うぅ……甘い……」
シャドウは地面に顔を埋め、声を押し殺して男泣きした。
冷たい暗殺者の仮面は、砂糖菓子のように砕け散っていた。
――彼が知る由もない真実。
ミミが見ていたのは、シャドウではない。
シャドウの顔の真横を歩いていた、「大きな虫の死骸を運ぶアリの行列」だった。
「重いのにえらいねぇ」も、「これどうぞ(エサの足しにしてね)」も。
すべては、働き者のアリさんに向けられた言葉だったのだ。
シャドウは今、アリの餌を奪って号泣している。
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【極秘通信ログ:暗号化回線(Level 5)】
送信者:シャドウ(暗殺ギルド長)
受信者:ゼル(宮廷魔導師)
ゼル:
報告しなさい、シャドウ。
対象の「魔女」の監視状況はどうですか?
レオン団長のように、精神汚染を受けてはいませんね?
シャドウ:
……ゼル。
俺は、今まで世界を灰色だと思っていた。
ゼル:
は?
何ポエムを言っているんですか。
状況報告を。
シャドウ:
彼女は魔女ではない。
「聖母」だ。
俺の『隠密EX』を完全に見破った上で、敵意ではなく慈愛を向けてきた。
俺のようなドブネズミに、「お仕事お疲れ様」と声をかけ、施し(クッキー)をくれたんだ。
ゼル:
……おい。
正気か?
お前の隠密を見破るなど、ドラゴン種でも不可能ですよ。
それに「施し」とは? 毒入りの餌では?
シャドウ:
毒など入っていない!!
入っていたのは「愛」だけだ!!
俺は食べた。泥と一緒に飲み込んだ。
五臓六腑に染み渡る、太陽の味がした……。
ゼル:
(……汚い)
シャドウ:
俺は決めたぞ、ゼル。
俺の持つ技術のすべてを、彼女のために使う。
このナイフは捨てた。
これからは「レンズ」を通して、彼女の尊い姿を後世に残す。
それが、光を与えられた影の……唯一の恩返しだ。
ゼル:
……シャドウ。
貴方、アリの行列の横にいましたね?
さっき使い魔から送られてきた映像を確認しましたが。
彼女の視線、貴方ではなく「アリ」に向いていませんでしたか?
シャドウ:
黙れェェェッ!!!
アリなどいない!
あそこにいたのは俺だけだ!
あのクッキーは俺への愛だ!
否定する奴は、たとえ依頼主でも抹殺する!!
ゼル:
……ああ、もうダメですね。
脳の処理野が完全に焼き切れています。
やれやれ……。最強の二人がこうも簡単に落ちるとは。
やはり、私が直接行って確かめるしかありませんか。
全てを「数値」でしか判断しないこの私が、感情論に流されるはずがありませんからね
[System Alert] —————————–
Mission Update:
Agent Shadow: COMPROMISED (Converted to Fanboy)
Next Agent: Zel (Royal Magician)
Objective: Direct Confrontation & Appraisal
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