海水浴を満喫して遊び疲れた一行は、大広間で夕食の膳を囲んでいた。
テーブルには、地元で獲れた新鮮な魚介類の舟盛りがドーンと鎮座している。
「うひょー! アワビ! 伊勢海老! 大トロ!」
「すごいですわ! こんな贅沢、バチカンでは見たこともありませんことよ!」
剣崎とセシリアが狂喜乱舞し、コアちゃんも目を輝かせている。
労働(掃除)の後の飯は格別だ。
ソウジも「いただきます」と手を合わせ、一番美味しそうな中トロに箸を伸ばした。
――スッ。
箸が空を切った。
あるはずの中トロが、煙のように消えていたのだ。
「ん? 気のせいか……?」
ソウジは首を傾げ、次はタイの刺身を狙った。
――スッ。
また消えた。
よく見ると、部屋の隅にある柱の影で、モグモグと口を動かしている「小さな影」があった。
綺麗な黒髪の、着物を着た幼い少女だ。
「あー……。なるほど」
食事中でゴーグルを外している彼には、その少女が「長期滞在している家族連れの子供」にしか見えていない。
「お嬢ちゃん、腹減ってんのか?」
ソウジが声をかけると、少女はビクッとして柱の陰に隠れた。
「こらこら、怖くないぞ。……ほら、これ食うか?」
彼は自分の舟盛りから、一番立派な伊勢海老を取り分け、小皿に乗せて差し出した。
「親御さんは温泉か? 子供だけでウロウロしてると危ないぞ」
「……くれるの?」
「ああ。掃除した後だからな、飯が美味いんだ。一緒に食おうぜ」
少女はおずおずと出てくると、伊勢海老をパクッと頬張った。
そして、花が咲くような満面の笑みを浮かべた。
「おいしー! ありがと、お掃除のおじちゃん!」
「おじちゃんじゃなくてお兄さんな」
「お部屋、キラキラしてて気持ちいいの! ずっと埃っぽくて息苦しかったけど、今は深呼吸できるよ!」
少女――座敷わらしは、嬉しそうに部屋中を駆け回った。
彼女が笑うたびに、旅館全体の運気が爆上がりし、古びた柱や床が艶を取り戻していく。
「あらあら、まあまあ」
配膳に来た女将さんが、その光景を見て目を細めた。
この旅館の守り神が、これほど無邪気に姿を見せるのは数十年ぶりのことだった。
***
夕食後。
女性陣は露天風呂に向かっていた。
断崖の上に作られた湯船からは、月明かりに照らされた海が一望できる。
「はぁ~……。極楽ですわ~……」
セシリアが豊かな肢体を湯に沈め、ほうっと息を吐いた。
隣ではコアちゃんが、タオルを頭に乗せて月を見上げている。
波の音だけが響く静寂の中、不意にコアちゃんが口を開いた。
「ねぇ、セシリアさん」
「なんですの?」
「セシリアさんは、社長のこと……どう思ってるんですか?」
直球の質問に、セシリアは「ブフッ!」と吹き出した。
「な、ななな、何を突然!? ど、どうって、尊敬する師匠であり、人生の先輩であり……!」
「それだけですか~?」
コアちゃんがニヤニヤと覗き込んでくる。
セシリアは茹でダコのように顔を赤くし、視線を泳がせた。
「……そ、それは……確かに、最初は無礼な殿方だと思いましたわ。私の聖なる光を『ススが出る』なんて否定して……」
彼女は湯面を見つめ、ポツリと漏らした。
「でも……あの時、コロコロ(粘着クリーナー)で優しく霊を諭す横顔を見た時、思ったんです。この方は、誰よりも世界を愛しているんだって」
「うんうん」
「普段はだらしないし、デリカシーもないし、すぐツナギで寝ちゃいますけど……。モップを握った時の真剣な眼差しだけは……その、素敵だな、って……」
最後の方は、蚊の鳴くような声だった。
自分の言葉に恥ずかしさが限界突破したのか、セシリアはバシャバシャとお湯を叩いた。
「あぁもう! 言わせないでくださいまし! コアちゃんだって、社長のこと好きなくせに!」
「はい! 大好きです! 私は社長に磨かれるために生まれましたから!」
「うぅ……その屈託のなさが羨ましいですわ……」
そんな二人の「恋バナ」を聞いていた女将さんが、くすくすと笑いながら背中を流しに来た。
「ふふ、いい男だよねぇ。罪な人だ」
女将さんは月を見上げ、どこか遠い目をした。
「あんなに丁寧に、慈しむように『場』を清められる人は、神代の昔以来だよ。……私の正体(海の精霊)に気づいていながら、あくまで『ただの女将』として接してくれる気遣いも憎いじゃないか」
「えっ? 女将さん、精霊だったんですか!?」
「おや、内緒だよ?」
女将さんはイタズラっぽくウィンクし、コアちゃんたちの背中にお湯をかけた。
キャッキャと騒ぐ女子たちの笑い声が、夜空に吸い込まれていく。
***
一方その頃。
男湯。
「ふぅ……。いい湯だ……」
人事部長の剣崎は、岩風呂の端で至福の時を過ごしていた。
男湯と女湯は高い塀で仕切られているが、夜風に乗って、先ほどの華やいだ笑い声が聞こえてくる。
『本当に、社長ったら……旅行に来てまでお掃除だなんて』
『でも、そこが社長の素敵なところです!』
『ふふ、愛されてるねぇ』
「……なんだか盛り上がってるなぁ」
剣崎は苦笑いした。
どうせ、あの鈍感な社長の話で持ちきりなのだろう。
「まったく、社長も隅に置けない人だ。……お?」
チャポン。
湯船の向こうから、誰かが入ってくる水音がした。
部屋で晩酌をしていたソウジが、ようやく来たのだろう。
「あ、社長。遅かったですね。今ちょうど、女性陣が社長の噂話をしてましてね……」
剣崎はニヤニヤしながら振り返った。
そこには、月明かりに照らされたシルエットがあった。
小柄な体躯。
頭にはお皿。
背中には甲羅。
そして全身緑色。
「…………」
剣崎の動きが止まった。
社長ではない。
どう見てもカッパである。
近所の沼から遠征してきたのだろうか、気持ちよさそうに目を閉じている。
「……社長? ずいぶんと……日焼けしました?」
あまりの現実逃避に、剣崎から意味不明な問いかけが漏れた。
もちろん返事はない。カッパは「クエッ」と短く鳴いただけだ。
「…………」
以前の剣崎なら、悲鳴を上げて逃げ出していただろう。
しかし、数々の修羅場(宇宙ゴミ分別など)をくぐり抜けてきた彼は、もはやこの程度のイレギュラーでは動じなくなっていた。
彼は深く息を吐くと、無言でタオルを手に取り、カッパの背後に回り込んだ。
「背中(甲羅)が流せていませんね」
カッパが驚いて振り向く前に、剣崎は慣れた手つきで甲羅を擦り始めた。
「苔が溜まってますよ。これじゃあ泳ぐ時、抵抗になるでしょう」
「クエッ!?」
「じっとしててください。今、ここのヌメリを取りますから」
ゴシゴシ、ゴシゴシ。
剣崎は無心で甲羅を磨いた。
職業病とは恐ろしいもので、彼は目の前に「汚れた背中」があると、磨かずにはいられない体になってしまっていたのだ。
女湯からの楽しげな恋バナとは対照的に、男湯にはシュールな摩擦音だけが響く。
「ここ! この窪みです! ここが一番汚れてるんですよ!」
「クエェェェ~(気持ちいい~)」
カッパはとろんとした目で脱力し、されるがままになっている。
「はっ!?」
数分後、ピカピカになった緑色の背中を見て、剣崎は我に返った。
「俺は……慰安旅行に来てまで、なんでカッパの垢すりを……!?」
月明かりの下、男湯には剣崎の悲痛な叫びと、スッキリして帰っていくカッパの水音だけが響いていた。
(続く)
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