翌日。
旅館『海神館』の目の前に広がるプライベートビーチは、抜けるような青空と、エメラルドグリーンの海に輝いていた。
「海だー! 天気も良くて最高の海ですわー!」
「わぁっ、冷たくて気持ちいいですね!」
新しい水着に着替えたセシリアとコアちゃんが、波打ち際ではしゃいでいる。
その少し奥で、人事部長の剣崎はパラソルの下、デッキチェアに身を預けてトロピカルジュースを啜っていた。
「……平和だ。本当に平和だ」
彼はサングラスの奥で涙を流していた。
モンスターもいない。爆発もしない。神様からの理不尽な命令もない。
これぞ、彼が夢見ていたバカンスだ。
「おい剣崎。背中、流してやろうか?」
「ひぃっ!? や、やめてください社長! カッパのトラウマが!」
灰坂ソウジが、ゴーグルと、黒いラッシュガード(作業着に見えるデザイン)姿で現れた。
首にはいつものタオル。手には何も持っていないが、その立ち姿は完全に「現場入り」した職人のそれだった。
「冗談だ。せっかくの海だ、ひと泳ぎしてくる」
ソウジは準備運動を終えると、綺麗なフォームで海へ飛び込んだ。
クロールで沖へと進む。
一般人の目には、美しいエメラルドグリーンの海中風景が広がっているはずだ。
色とりどりの魚が泳ぎ、太陽の光が差し込む楽園。
――だが、ソウジのゴーグル越しに見える世界は、全く違っていた。
【水質:透明度A(不純物なし)】
【塩分濃度:3.4%(生理食塩水に近い)】
【対象:浮遊性タンパク質汚れ(魚群)、繊維状ゴミ(海藻)】
彼の視界にあるのは「広大な色あせた水槽(プール)」だけ。
目の前を泳ぐカラフルな熱帯魚の群れも、彼には「水中を漂うホコリ」にしか見えていない。
「ふむ。いい水だ。濁りがない」
ソウジにとっては、景色が美しいかどうかはどうでもいい。
「水が澄んでいる(掃除が行き届いている)」ことだけが、彼にとっての癒やしなのだ。
彼が満足げにターンしようとした、その時だった。
ズズズズズ……。
突如、灰色の視界が赤い警告色に染まった。
足元の深海から、ドス黒い液体が湧き上がり、クリアだった水槽を一瞬で漆黒に染め上げたのだ。
「きゃああああ!? な、何これ!?」
「海が……真っ黒に!?」
浜辺のセシリアたちが悲鳴を上げる。
黒い海面が盛り上がり、巨大な影が出現した。
ヌラリと光る巨大な頭。
ねじり鉢巻きのような模様。
そして、建物をなぎ倒すほど太い8本の触手。
【海難法師・大入道(タコ変異種)】だ。
かつて沖合で沈没したタンカーの重油や、海洋プラスチックゴミを飲み込んで巨大化した、環境汚染の化身。
タコ入道は怒り狂い、口を大きく開けた。
「ブモォォォォォォ!!」
ブシュッ!!
口から猛烈な勢いで「黒いスミ(有害ヘドロ)」が噴射される。
それは海を汚し、空を曇らせ、浜辺のパラソルを黒く塗りつぶしていく。
「嘘だろ!? 俺のバカンスが!」
「逃げてください! あのスミ、触れると腐食しますわ!」
パニックになる浜辺。
しかし、海上のソウジだけは、冷静にゴーグルの解析画面を見つめていた。
【警告:インク漏れを検知】
【発生源:巨大カートリッジ(黒)】
【原因:タンクの破損、または詰め替えミス】
【被害予想:周囲への飛び散り(洗濯不可)】
「うわぁ……。最悪だ」
ソウジは顔をしかめた。
彼の目には、タコ入道が「インクがダダ漏れしている、故障した巨大プリンターのカートリッジ」にしか見えていない。
「インク汚れは服につくと落ちないんだよ。……誰だ? 純正品じゃない安物インクを使ったのは」
彼は舌打ちし、周囲を見渡した。
手持ちの武器(掃除用具)はない。
あるのは、波打ち際に打ち上げられた漂流物だけだ。
「……使えるな」
ソウジは浜辺へ戻るのではなく、漂流物に向かって泳いだ。
拾い上げたのは、海流に乗って流れてきた「古びた漁網」と、中身の入っていない「2リットルのペットボトル」、あと着ている「ラッシュガード」を乱暴に脱ぐ。
「現地調達。これさえあれば十分だ」
彼は海中で素早く手を動かした。
ペットボトルの底を石で叩き割り、筒状にする。
その中に、丸めた漁網とラッシュガードをギチギチに詰め込んだ。
即席【油吸着ハンディ・フィルター】の完成だ。
「おい、そこのポンコツカートリッジ! 海を汚すんじゃねぇ!」
ソウジはバタ足で加速し、暴れるタコ入道へと突っ込んだ。
タコが触手を振り回し、さらなるスミを吐こうと口を尖らせる。
「ブモォッ!(また汚してやる!)」
「吐かせねぇよ!」
ソウジはタコの口元(スミの噴出孔)に、ペットボトルの飲み口をガポッ! と押し当てた。
そして、ペットボトルの底(漁網が詰まっている側)から、手で海水を送り込みながら「負圧」をかけた。
「フィルター交換だ! 詰まったインクごと吸い出してやる!」
ズズズズズズッ!!!
漁網の細かな網目とラッシュガードの極細繊維が、タコの体内に溜まっていた重油やヘドロを強力に絡め取る。
黒い液体がペットボトルのフィルターに吸着されていく。
だが、相手は巨大な怪獣だ。
数秒もしないうちに、ペットボトルから黒い液体が溢れ出した。
【警告:廃インクタンク満杯】
【許容量(2L)を超過しました】
「チッ、やっぱり2リットルじゃ足りないか……!」
ソウジが舌打ちした瞬間、吸い出しを止められたタコ入道が激昂した。
「ブモォォォォォ!!(調子に乗るなぁぁぁ!)」
ドゴォォォォォン!!
タコ入道は8本の触手を振り回し、海面を叩きつけた。
発生した高波がソウジを吹き飛ばし、さらに触手が浜辺へと伸びる。
「きゃあああああ!?」
「離しなさい! ぬるぬるしますわ!」
伸びた触手が、逃げ遅れたコアちゃんとセシリアを捕らえ、空高く吊り上げた。
ヌラヌラしたヘドロが、彼女たちの綺麗な水着を汚していく。
「社長、助けてぇぇ!」
「おい……!」
海から顔を出したソウジの目が、据わった。
ゴーグルの奥の瞳が、冷徹な光を放つ。
「うちの従業員を、汚い手で触るんじゃねぇ」
ソウジは「吸い出し(修理)」を諦めた。
これだけの規模の汚れ、もはやチマチマ吸っている場合ではない。
「剣崎!! 車のトランクだ! 『アレ』を持ってこい!」
「えっ!? アレって……まさか!」
「早くしろ! 繊維の奥まで染み込む前に『手洗い』するぞ!」
剣崎は慌てて駐車場へ走り、トランクから業務用の黄色いポリタンクを抱えて戻ってきた。
ソウジが旅行前に「念のため」と積んでいた、最強の洗剤だ。
「受け取ってください社長! 【スライムキラー・ウルトラ(業務用・超強力アルカリ電解水 強粘度タイプ)】です!」
剣崎が全力で放り投げたポリタンクを、ソウジは空中でキャッチした。
「サンキュー! ……おいタコ! インク汚れにはな、直接揉み込んで落とすのが一番なんだよ!」
ソウジはポリタンクの蓋を開け、タコ入道の頭上(巨大な頭)に飛び乗った。
ドボドボドボッ!!
粘り気のある洗剤液を、タコの頭皮(?)に直接ぶちまける。
「ヌメヌメするぅぅ!?(なんだこれは!?)」
「逃がすかよ! ここからは手作業だ!」
ソウジはタコの頭にしがみつくと、全身の体重と筋力を指先に込めた。
狙うは、汚れが溜まっている毛穴(のような部分)の深層だ。
「奥義……【プロ式手洗い・もみ出し洗い】!!」
ギュッ、ギュッ、ギュルルルルッ!!
ソウジの指が、タコの皮膚を強烈な握力で「揉みしだく」。
それは攻撃ではない。
繊維の奥に入り込んだ粒子を、物理的に押し出すための「洗濯」だ。
「痛くはねぇだろ! ただ汚れを出してるだけだ!」
「ブ、ブモォォォォ……ッ!?(あああ、そこ、凝ってるぅぅぅ!?)」
洗剤の分解力と、ソウジの絶妙なマッサージ(もみ洗い)が組み合わさり、タコの毛穴から黒い汁がジュワジュワと湧き出てくる。
「仕上げだ! 【遠心・分離】!!」
ソウジはタコの巨体を抱え込むと、立ち泳ぎのまま、ジャイアントスイングのように振り回した。
凄まじい高速回転で、最後の一滴まで汚れを吹き飛ばす。
ブシューーーーーッ!!
タコの全身から、凄まじい勢いで黒い廃液が噴出した。
ドサッ。
全てを出し切ったタコ入道は、脱力して海面に浮かんだ。
その体は汚れが完全に落ち、手のひらサイズになっていた。
ついでに、ソウジのマッサージ効果で身も柔らかくなっているようだ。
【タスク完了:インク漏れの洗浄】
【工法:手洗い(強)】
【仕上がり:ふっくら柔らか】
「ふぅ。……頑固な汚れだったな」
ソウジは息を整え、小さくなったタコを拾い上げた。
タコはもう暴れる元気もなく、ソウジの指に吸い付いて「ごめんなさい」と水を吹いた。
「お前も被害者だからな、もう変なもん食うんじゃねーぞ」
浜辺に上がったソウジを、泡まみれで解放されたコアちゃんとセシリアが出迎える。
「社長! 助かりました!」
「すごいですわ! あの巨体を素手で揉み洗いするなんて!」
「……でも社長、この洗剤代、経費で落ちますかね?」
心配そうにする剣崎に、ソウジはニカッと笑って親指を立てた。
「安心しろ。……今回は休日出勤扱いだ」
S級清掃員の休日は、どこまで行っても「業務」と隣り合わせだ。
だが、再び青さを取り戻した海は、彼らの疲れを癒やすように優しく輝いていた。
(続く)
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