第27話:おばあちゃんの塩は『S級ポーション』より効く

 新入社員ミカエルが「空飛ぶ窓拭き係」として覚醒した日の夕暮れ。
 仕事を終えた灰坂ソウジは、一人で下町の路地を歩いていた。

「ふぅ……。今日は新人の教育で疲れたな」

 彼は古びた駄菓子屋『梅の屋』の前で足を止めた。
 ここはこの街で数少ない、ソウジが「仕事」を忘れてくつろげる場所だ。

「こんばんは、梅さん。まだやってるか?」

「おや、ソウジちゃん。いらっしゃい」

 店番をしていたのは、腰の曲がった小柄な老婆、梅さんだ。
 彼女はソウジが「S級清掃員」として世界中で騒がれていることなど知らず、昔馴染みの「掃除屋のお兄ちゃん」として接してくれる貴重な存在だった。

「いつものラムネと、麩菓子もらうよ」

 ソウジは小銭を取り出し、愛用のヘルメット(アクションカメラ『ComePro』付き)をカウンターの上に無造作に置いた。

 ガツッ。

 その衝撃で、『ComePro』の配信ボタンが何かに押し込まれた。
 
 ピロン♪
 【配信を開始しました】

 しかし、ソウジは気付かない。
 彼はパイプ椅子に腰掛け、ラムネのビー玉を押し込んだ。

『ん? 通知来た! 緊急配信か!?』
『今度はどこだ? 魔界か? 深海か?』
『……え、駄菓子屋?』
『お菓子食ってるだけじゃねーか!』
『平和すぎて草』
『背景が昭和レトロすぎる』

 視聴者たちが困惑する中、梅さんがお盆にお茶を乗せてやってきた。

「はい、お茶どうぞ。……ごめんねぇ、急須が汚くて」

 梅さんは申し訳無さそうに眉を下げた。
 出された急須の注ぎ口には、茶色い「茶渋」がこびりついていた。

「どうしても落ちなくてねぇ。漂白剤もきらしてるし……」

「…………」

 その言葉を聞いた瞬間、ソウジの目が鋭くなった。
 職業病の発動だ。

「梅さん。塩はあるか?」

「え? お塩かい? あるけど……」

「あと、ラップかアルミホイルの切れ端を少し」

 ソウジは梅さんから塩を受け取ると、ラップを丸めて少量の水をつけた。

「いいですか、梅さん。茶渋っていうのは、お茶の成分が固まった頑固な汚れです。洗剤だけで落ちない時は、こうするんです」

 彼は急須の汚れに塩を振りかけ、丸めたラップで優しく、円を描くように擦り始めた。

 ジョリ、ジョリ、ジョリ。

「塩の粒子は硬いので、天然の『研磨剤』代わりになるんです。スポンジだと塩が入り込んじゃうんで、ラップを使うのがコツです」

 数秒擦ってから水で流すと、茶色く変色していた注ぎ口が、新品のようにピカピカに輝いていた。

「おやまぁ! 魔法みたいだねぇ!」

「へへっ、身近なものでも代用できるんですよ。もし酢かレモン汁があれば、塩と混ぜてペーストにするともっと効果的です」

 ソウジは得意げに鼻をこすった。
 その様子に、コメント欄が盛り上がる。

『へぇ〜、塩で落ちるのか』
『知らなかった、今度やってみよ』
『世界を救う英雄のアフターが「茶渋落とし」てwww』
『おばあちゃん子かよ、好感度上がるわ』
『この知識、ダンジョンで役に立つのか?』
『S級ポーション(塩)』

「ただ、注意点があります」

 ソウジは真面目な顔で付け加えた。

「これはあくまで『研磨』、つまり表面を薄く削って光らせているんです。だから、プラスチック製品や柔らかい素材には使わないでください。傷だらけになっちゃいますから」

「なるほどねぇ。表面を削って、ツルツルに磨き上げるんだねぇ。勉強になるよ」

 梅さんの感心した声が響く。
 平和な時間が流れていた。
 だが、この「研磨の理屈」が、まさかあんな悲劇を招くことになるとは、今のソウジは知る由もなかった。

 その時。
 ソウジのスマホがけたたましく鳴り響いた。
 着信画面には『剣崎』の文字。

「……悪い予感がするな」

 ソウジが電話に出ると、鼓膜が破れそうな絶叫が聞こえてきた。

『しゃ、社長ォォォォォ!! 緊急案件です!! 今すぐ来てください!!』

「なんだ? ゾンビでも出たか?」

 ソウジはのんびりとラムネを飲み干した。
 しかし、次の剣崎の言葉で、その表情が凍りついた。

『いえ……もっと恐ろしいものです! 地下鉄ダンジョン『メトロ・アビス』で、探索者たちがパニックになっています!』

「恐ろしいもの?」

『はい! 黒くて、カサカサ動く、速い影の大群です!!』

「…………は?」

 ソウジの手から、空になったラムネ瓶が滑り落ちた。
 ガシャーン。

「く、黒くて……カサカサ……?」

『ええ! しかも飛んでます! 社長、早く来てください!』

 ソウジの顔から血の気が引いていく。
 最強のS級清掃員が、初めて見せる「恐怖」の表情だった。

「悪い、梅さん。……急用ができた」

 ソウジは震える手でヘルメット(配信中)を掴むと、ふらつく足取りで店を飛び出した。

『おい、今の聞いたか?』
『黒くてカサカサ……まさか』
『あの英雄がビビってるぞ』
『これはヤバイ予感』
『この知識が何の役に立つんだ?(フラグ回収の予感)』

 平和な日常は唐突に終わりを告げた。
 向かう先は、人類にとって最も忌むべき「天敵」が待つ、暗黒の地下鉄ダンジョン。

(続く)

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