都心の地下深くを走る、地下鉄ダンジョン『メトロ・アビス』。
かつては大勢の通勤客を運んでいたその場所は、今は湿った空気が漂う魔窟と化していた。
「しゃ、社長……。ここです。探索者たちがパニックになって逃げ帰ってきたエリアは」
人事部長の剣崎が、懐中電灯を震わせながら言った。
彼の背後には、青ざめた顔の灰坂ソウジと、新人のミカエル、そして聖女セシリアが続いている。
「…………」
ソウジは無言だった。
いつもなら「なんだ、ただの埃っぽい通路か」と軽口を叩く彼が、今日は妙に静かだ。
額には脂汗が滲んでいる。
「社長? どうされました?」
「……おかしい」
ソウジはゴーグルを押し上げた。
「いつもなら、ダンジョンに入った瞬間に『汚れデータ』が表示されるはずなんだ。……だが、ここは何も出ない」
「え? 綺麗ってことですか?」
「いや。……何かが、俺の『掃除本能』を拒絶している」
その時だった。
カサカサ……。
壁の裏側から、乾いた摩擦音が響いた。
一つではない。百、いや千の音が重なり合い、闇の中で蠢いている。
「ひっ……! な、なんですかこの音!?」
セシリアが短い杖(布団叩き)を構えて身構える。
ミカエルも翼を広げ、警戒態勢に入った。
「来ます……! 前方、未確認生物多数!」
カサカサカサカサカサッ!!
闇の奥から、黒い奔流が溢れ出した。
それは、ただのモンスターではなかった。
体長1メートル。
油を塗ったようにテラテラと黒光りする流線型のボディ。
異常に発達した長い触角。
そして、見る者に生理的な嫌悪感を植え付ける、無数の棘が生えた脚。
【プレデター・コックローチ(黒の捕食者)】。
人類がDNAレベルで恐怖する「害虫」の王が、そこにいた。
「…………ッ!!」
ソウジの解析ゴーグルに、かつてない警告ウィンドウが赤く点滅した。
【警告:精神汚染リスク増大(Mental Pollution)】
【種別:害虫(Pest)】
【脚の毛:剛毛(密集度AAA)】
【全身の脂:ねっとりとした不快な粘液】
【移動予測:不規則(カオス理論適応外)】
【推奨:直視禁止(Don’t Look)】
【解析不能:これは『汚れ』ではありません。敵です】
普段、ドラゴンすら「油汚れ」と認識するソウジの脳が、この敵だけは「汚れ」への変換を拒否したのだ。
あまりにも、そのフォルムが完成されすぎていたからだ。
「……あ、あ、あ……」
ソウジの口から、乾いた音が漏れた。
黒い捕食者の一体が、長い触角を揺らし、ソウジの方を向いた。
そして。
ブオォォン!!
背中の羽を広げ、低く重い羽音を立てて飛翔した。
その軌道は、予測不能かつ不規則。
一直線にソウジの顔面へと向かってくる。
「う、うわあああああああああッ!!!」
地下鉄構内に、伝説のS級清掃員の絶叫が響き渡った。
「来るなァァァ! こっち飛んでくんなァァァ! 無理無理無理ッ!!」
ソウジは持っていたモップを放り出し、脱兎のごとく背を向けて走り出した。
戦略的撤退ではない。
完全なる、パニックによる敵前逃亡だ。
「しゃ、社長!? 職場放棄ですか!?」
「バカ野郎! あれは掃除じゃねぇ! ただのデカい虫だ! 俺は帰るぞ!」
「ちょっ、待ってくださいよ!」
その一部始終は、駄菓子屋からつけっぱなしになっていたヘルメットの『ComePro』によって、全世界へ高画質配信されていた。
『うわああああああああああ!』
『出たァァァァァ!』
『Gだ! しかもデカい!』
『これアカンやつや』
『画質良すぎて吐きそう』
『画質落としてくれ! 4Kで見るもんじゃない!』
『社長が初めてビビってるwww』
『逃げるなwww いや逃げていい、これは無理』
『【悲報】伝説の英雄、Gに敗北』
『わかる。ドラゴンより怖いもん』
『人類共通の敵すぎる』
画面の向こうの視聴者たちも、阿鼻叫喚の嵐だった。
どんな強敵にも一歩も引かなかった男が、涙目で逃げ惑っている。
その姿に幻滅する者は誰もいなかった。むしろ、全人類が深く共感していた。
「キシャァァァァッ!!」
プレデター・コックローチの大群が、カサカサと壁を埋め尽くし、ソウジたちを包囲していく。
生理的嫌悪感の波状攻撃。
「剣崎ィ! セシリア! なんとかしろ! 俺はあいつに触れない!」
「む、無茶言わないでくださいよ!」
「私も嫌ですわ! あんなの布団叩きで叩いたら、汁が飛び散りますもの!」
絶体絶命のピンチ。
だが、混乱するソウジはまだ気づいていなかった。
この後、自身が放つ起死回生の一手が、最悪の事態を招くことになるとは。
「くそっ、近づくな! 水だ! 水で流してやる!」
ソウジは震える手で、背中のタンクに繋がった『ケルベロス・ヒャッハー』のノズルを構えた。
それは、汚れを落とすための道具であり、敵を倒すための武器ではない。
そして、悲劇の幕が上がる。
(続く)
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