第28話:人類共通の敵、現る

 都心の地下深くを走る、地下鉄ダンジョン『メトロ・アビス』。
 かつては大勢の通勤客を運んでいたその場所は、今は湿った空気が漂う魔窟と化していた。

「しゃ、社長……。ここです。探索者たちがパニックになって逃げ帰ってきたエリアは」

 人事部長の剣崎が、懐中電灯を震わせながら言った。
 彼の背後には、青ざめた顔の灰坂ソウジと、新人のミカエル、そして聖女セシリアが続いている。

「…………」

 ソウジは無言だった。
 いつもなら「なんだ、ただの埃っぽい通路か」と軽口を叩く彼が、今日は妙に静かだ。
 額には脂汗が滲んでいる。

「社長? どうされました?」

「……おかしい」

 ソウジはゴーグルを押し上げた。

「いつもなら、ダンジョンに入った瞬間に『汚れデータ』が表示されるはずなんだ。……だが、ここは何も出ない」

「え? 綺麗ってことですか?」

「いや。……何かが、俺の『掃除本能』を拒絶している」

 その時だった。

 カサカサ……。

 壁の裏側から、乾いた摩擦音が響いた。
 一つではない。百、いや千の音が重なり合い、闇の中で蠢いている。

「ひっ……! な、なんですかこの音!?」

 セシリアが短い杖(布団叩き)を構えて身構える。
 ミカエルも翼を広げ、警戒態勢に入った。

「来ます……! 前方、未確認生物多数!」

 カサカサカサカサカサッ!!

 闇の奥から、黒い奔流が溢れ出した。
 それは、ただのモンスターではなかった。

 体長1メートル。
 油を塗ったようにテラテラと黒光りする流線型のボディ。
 異常に発達した長い触角。
 そして、見る者に生理的な嫌悪感を植え付ける、無数の棘が生えた脚。

 【プレデター・コックローチ(黒の捕食者)】。

 人類がDNAレベルで恐怖する「害虫」の王が、そこにいた。

「…………ッ!!」

 ソウジの解析ゴーグルに、かつてない警告ウィンドウが赤く点滅した。

【警告:精神汚染リスク増大(Mental Pollution)】
【種別:害虫(Pest)】
【脚の毛:剛毛(密集度AAA)】
【全身の脂:ねっとりとした不快な粘液】
【移動予測:不規則(カオス理論適応外)】
【推奨:直視禁止(Don’t Look)】
【解析不能:これは『汚れ』ではありません。敵です】

 普段、ドラゴンすら「油汚れ」と認識するソウジの脳が、この敵だけは「汚れ」への変換を拒否したのだ。
 あまりにも、そのフォルムが完成されすぎていたからだ。

「……あ、あ、あ……」

 ソウジの口から、乾いた音が漏れた。
 黒い捕食者の一体が、長い触角を揺らし、ソウジの方を向いた。
 そして。

 ブオォォン!!

 背中の羽を広げ、低く重い羽音を立てて飛翔した。
 その軌道は、予測不能かつ不規則。
 一直線にソウジの顔面へと向かってくる。

「う、うわあああああああああッ!!!」

 地下鉄構内に、伝説のS級清掃員の絶叫が響き渡った。

「来るなァァァ! こっち飛んでくんなァァァ! 無理無理無理ッ!!」

 ソウジは持っていたモップを放り出し、脱兎のごとく背を向けて走り出した。
 戦略的撤退ではない。
 完全なる、パニックによる敵前逃亡だ。

「しゃ、社長!? 職場放棄ですか!?」

「バカ野郎! あれは掃除じゃねぇ! ただのデカい虫だ! 俺は帰るぞ!」

「ちょっ、待ってくださいよ!」

 その一部始終は、駄菓子屋からつけっぱなしになっていたヘルメットの『ComePro』によって、全世界へ高画質配信されていた。

『うわああああああああああ!』
『出たァァァァァ!』
『Gだ! しかもデカい!』
『これアカンやつや』
『画質良すぎて吐きそう』
『画質落としてくれ! 4Kで見るもんじゃない!』
『社長が初めてビビってるwww』
『逃げるなwww いや逃げていい、これは無理』
『【悲報】伝説の英雄、Gに敗北』
『わかる。ドラゴンより怖いもん』
『人類共通の敵すぎる』

 画面の向こうの視聴者たちも、阿鼻叫喚の嵐だった。
 どんな強敵にも一歩も引かなかった男が、涙目で逃げ惑っている。
 その姿に幻滅する者は誰もいなかった。むしろ、全人類が深く共感していた。

「キシャァァァァッ!!」

 プレデター・コックローチの大群が、カサカサと壁を埋め尽くし、ソウジたちを包囲していく。
 生理的嫌悪感の波状攻撃。

「剣崎ィ! セシリア! なんとかしろ! 俺はあいつに触れない!」

「む、無茶言わないでくださいよ!」

「私も嫌ですわ! あんなの布団叩きで叩いたら、汁が飛び散りますもの!」

 絶体絶命のピンチ。
 だが、混乱するソウジはまだ気づいていなかった。
 この後、自身が放つ起死回生の一手が、最悪の事態を招くことになるとは。

「くそっ、近づくな! 水だ! 水で流してやる!」

 ソウジは震える手で、背中のタンクに繋がった『ケルベロス・ヒャッハー』のノズルを構えた。
 それは、汚れを落とすための道具であり、敵を倒すための武器ではない。

 そして、悲劇の幕が上がる。

(続く)

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