──数時間後。
聖教国エリュシオンの裏路地。
煌びやかな大通りの喧騒から遮断されたその場所には、腐った生ゴミのツンとする臭いと、肌を刺すような冷気だけが満ちていた。
しんしんと降り積もる雪の中、私たちはゴミ捨て場の陰に身を寄せていた。
高級だった私のスーツは泥にまみれ、見る影もない。
指先の感覚はとっくに失われ、吐く息だけが白く濁っている。
「……うぅ、寒い……」
アリスが小さく震えながら、膝を抱えている。
彼女のローブは薄く、この極寒の冬を凌ぐには頼りない。
いつもなら、温かいサーバー室で高級プリンを食べているはずの彼女が、今は唇を紫色にして震えている。
「すまねぇ、大将……。俺が不用意に動いたせいで……」
ガントが項垂れた。
彼の自慢の重装備は、衛兵に「危険物所持」として没収された。今の彼は、ただのボロボロのシャツ一枚の大男だ。
鍛え抜かれた肉体とはいえ、この底冷えは骨まで響いているだろう。
「謝らないでください、ガント。……これは、私の読みが甘かった」
私は眼鏡を外し、凍えた指でレンズを拭った。
この数時間、私たちは地獄を見た。
◇
1時間前。宿屋通り。
「頼む、一晩だけでいい! 金ならあるんだ! ほら、最高純度のマナ石だ!」
私たちは宿屋の主人に、1万マナ相当の宝石(魔石)を差し出した。
どこへ行っても歓迎されるはずの輝き。
だが、主人の顔は恐怖に歪んだ。
「ひぃっ! しまうんだ! その汚れた石を見せるな!」
「汚れた石……? これは純度99%の……」
「関係ない! 『異端者』と取引したことがバレたら、ウチの店まで口座を凍結されちまう! 俺たち家族を路頭に迷わせる気か! 帰れ! 二度と来るな!」
バタンッ!
扉が閉ざされ、さらに塩を撒かれた。
「二次制裁(セカンダリー・サンクション)」。
私たちと関わるだけで、彼らもまた「経済的な死」を迎える。その恐怖が、人々の善意を完全に殺していた。
30分前。路上のパン屋。
「お腹すいた……パン……」
空腹に耐えかねたアリスがふらりと屋台に近づいただけで、店主が血相を変えて衛兵を呼んだ。
「衛兵ー! 異端者が商品を汚そうとしてるぞー! 誰か追い払ってくれ!」
周囲の客たちからの、蔑むような視線。
まるで伝染病患者を見るような目。
「金がない」のではない。「存在そのものが罪」なのだ。
◇
そして現在。
「……お腹、すいたな」
アリスの呟きが、静かな路地裏に響く。
彼女が大切に持っていた石板(スレート)は、ネットワークから遮断され、ただの冷たい板切れになっていた。
「クリフ、私……もうハッキングできない……。ただの役立たずだよ……」
「そんなことはありません」
私は泥だらけのスーツジャケットを脱ぐと、震える彼女の小さな肩にふわりと掛けた。
残った体温と、微かな残り香が彼女を包む。
「あ……」
アリスが驚いて顔を上げる。
「CTOの体調不良は、我が社にとって最大の損失リスクですからね。……これは、重要な『資産保全(メンテナンス)』の一環です」
「……っ、ば、バカ。あんたが風邪引いたら、誰が計算するのよ」
アリスは一瞬言葉を詰まらせ、それからポッと頬を赤らめた。
彼女は私のジャケット――いつも嗅いでいる、珈琲とインクの匂いが染み付いた襟元を、ギュッと両手で掴んで顔を埋める。
「……あったかい。……ありがと」
消え入りそうな声。
その様子を見て、私は苦笑した。
やれやれ、もし今の光景を魔王ゼノン(社長)が見ていたら、私の首は物理的に飛んでいたかもしれない。「娘に触るなァァ!」という絶叫と共に。
だが、感傷に浸っている余裕はない。
正直、私自身も限界が近い。
ジャケットを失ったYシャツ越しの冷気が、容赦なく体力を奪っていく。
その時だった。
ガサゴソ……ガコンッ。
背後のゴミ山から、重たい金属音がした。
振り返ると、ガントがゴミの山を漁り、何かを引っ張り出しているところだった。
「……大将、こいつを見てくれ」
彼の手には、赤錆びた円盤状の鉄塊――おそらく地下水路のマンホールの蓋のようなものが握られていた。
「汚ねぇし、取っ手もねぇ。だが……」
ガントはそれを左腕に当て、軽く構えて見せた。
その瞳には、装備を奪われた惨めさは微塵もない。あるのは、不屈の闘志だけだ。
「こいつはいい鉄だ。……十分、盾代わりになる」
「ガント……」
「へっ、俺は防衛隊長だぜ? 大将と嬢ちゃんを守るのに、ミスリルの盾なんざ要らねぇ。この鉄屑一枚あれば十分だ」
ニカっと笑う相棒の姿に、私は胸が熱くなるのを感じた。
そうだ。私たちはまだ終わっていない。
金も装備も奪われたが、この「信頼」という資産だけは、どんな制裁でも凍結できない。
「……ええ。頼りにしていますよ、ガント」
私は頷き、懐から一枚の紙幣を取り出した。
緊急用に隠し持っていた、最高額面の『10億マナ紙幣』。
「さて。では、暖を取りましょうか」
「お、おい! 大将、そいつは10億マナだぞ!?」
私は紙幣を指先で強く弾き、紙面に印刷されたインク――高純度のマナ塗料に物理的な摩擦を与えた。
シュボッ。
私の指先から、紙幣が一気に発火した。
それは紙が燃える赤い火ではない。圧縮されたマナが物理的に燃焼反応を起こした、青白い高熱の炎だ。
「ここでは、これが最も『有意義な使い方』です」
私は青白く燃え上がる10億マナを、地面に置いた空き缶の中に放り込んだ。
ゴオォォ……と低い音を立てて燃える札束。
その高密度な熱エネルギーが、凍えた私たちの手を瞬く間に温める。
「……あったかい」
アリスが火に手をかざす。
10億マナの炎。世界で一番高く、そして一番虚しい輝き。
その青白い光が、ガントの持つ錆びたマンホールを、まるで伝説の盾のように照らし出していた。
炎を見つめながら、私は思考を巡らせた。
SWIFT排除。二次制裁。
完璧な経済封鎖だ。正面から突破する方法はない。
だが、キョウヤは一つだけ見落としている。
彼は「マナ」を封じたことで勝利したと思っている。
しかし、経済の本質は通貨そのものではない。
「……ふっ、ふふふ」
絶望的な状況で、乾いた笑いが漏れた。
「大将? 大丈夫か? とうとうおかしくなっちまったか?」
「いいえ、ガント。……逆です」
私は燃え尽きて灰になった10億マナを踏み潰し、眼鏡をかけ直した。
レンズの奥で、私の瞳が青白く発光する。
金も、魔法も、信用も奪われた。
ゼロになった。
つまり、これ以上失うもの(リスク)は何もない。
「私たちは今、最強の『チャレンジャー(持たざる者)』です」
私は立ち上がり、白亜の大聖堂を見上げた。
あの中で、教皇とキョウヤは勝利の美酒に酔っているだろう。
私たちが野垂れ死ぬのを確信して。
「見ていなさい。……ここから『ゼロ』から這い上がり、貴女達の神(信用)を……完膚なきまでに暴落(クラッシュ)させて差し上げましょう」
最強のCFOは、路地裏のゴミの中から、反撃の計算(シナリオ)を開始した。
手始めに必要なのは、この国で通用する「原子」――すなわち、キョウヤの監視が届かない「闇の資金源」だ。
「アリス、ガント。……行きますよ」
「へっ、どこへだ?」
「決まっています。この国で唯一、我々が確率(数字)で勝てる場所」
私は夜の闇に紛れ、怪しく輝くネオン街の方角を指差した。
「──『地下賭博場(カジノ)』です」
(続く)
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