地底証券ゴブリン・サックスを主幹事に迎えてから数日後。
魔王城のCFO室は、上場準備(IPO)の書類作成という、地味かつ過酷な戦場と化していた。
「クリフぅ〜、この『有価証券届出書』の項目多すぎない? 『事業のリスク』だけで辞書みたいになってるよ」
アリスが山積みの羊皮紙に埋もれながらボヤく。
私も、三台の魔導計算機を同時に叩きながら答えた。
「我慢してください。ここを乗り越えれば、我々は公的な『株式会社』として認められるのです」
上場審査。それは、企業が社会の公器としてふさわしいかを問われる「試験」だ。
財務状況、ガバナンス、そしてコンプライアンス。
一つでも不備があれば、容赦なく落とされる。
その時だった。
部屋の空気が、ドス黒い紫色に染まった。
殺気ではない。もっと冷たく、重苦しい……「法的拘束力」を伴う圧力だ。
「失礼しますよ、クリフさん。……いえ、今は『上場申請代理人』とお呼びすべきでしょうか?」
ドアが音もなく開いた。
そこに立っていたのは、細身のスーツに身を包んだ、蛇のような目をした男。
その手には、分厚く輝く書物が抱えられている。
私は手を止め、眼鏡の位置を直した。
「……お久しぶりですね、ヴァイパー。刑務所の居心地はいかがでしたか?」
かつて私と戦い、敗北した悪徳弁護士。
ヴァイパーは、相変わらずの人を食ったような薄笑いを浮かべ、部屋に入ってきた。
「最悪でしたよ。お陰様で、私は以前申し上げた通り司法取引に応じました。現在は王国財務省・特別顧問兼、上場審査委員会の『コンプライアンス担当』を拝命しております」
「なるほど。毒を持って毒を制す……王国も考えましたね」
かつての犯罪者が、今や「法の番人」として私の前に立っている。
これほど厄介な敵はいない。彼は、私の「手口」を知り尽くしているからだ。
ヴァイパーは、手に持っていた輝く書物――聖法全書をデスクにドスンと置いた。
その本から放たれる神聖かつ威圧的な魔力が、私の作成した書類を鎖のように縛り付ける。
「単刀直入に申し上げましょう。貴社の『上場予備審査』ですが……」
彼が指を鳴らす。
聖法全書がパラパラとめくれ、不吉な宣告を告げた。
「法の名において却下する。――【異議あり】」
ガギィィィン!!
金属音と共に、私のデスクに「不承認(REJECT)」の焼き印が押された書類が叩きつけられた。
「……理由は?」
「これですよ」
ヴァイパーは、呆れたように魔王軍の『定款(会社の憲法)』を指差した。
その第一条、経営理念の欄だ。
【経営理念:世界征服】
「……何か問題でも?」
「大ありです! 品がないですねぇ」
ヴァイパーが肩をすくめる。
「『世界征服』とは何ですか。これは国家転覆罪および侵略戦争の予告に他なりません。
王国の証券取引法、および公序良俗に著しく反します。
こんなテロリストの宣言を掲げた企業を、上場させられるわけがないでしょう!」
正論だ。
ぐうの音も出ないほどの正論である。
隣でアリスが「あちゃー」という顔をしている。
だが、私は動じなかった。
静かにコーヒーを啜り、ヴァイパーを見据える。
「……ヴァイパーさん。貴方は法律家としては優秀ですが、ビジネスマンとしては二流ですね」
「何だと?」
「『世界征服』という言葉を、物理的な侵略としか解釈できないとは。想像力が貧困です」
私は指を鳴らした。
空中にホログラムのキーボードが出現する。
「いいですか。以前、貴方は私に言いましたね。『詭弁でも、通ればそれが真実になる』と。
……現代のビジネスにおいて、言葉とは『定義』次第でどうとでもなるのです」
私は定款のデータを呼び出し、猛烈な勢いでタイピングを開始した。
「我々の言う『世界征服』とは、武力による支配ではありません。
全世界の顧客に対し、圧倒的なサービスを提供し、市場シェアを独占すること……。
すなわち、法的にはこう定義されます」
私がエンターキーを叩くと、定款の文字が書き換わった。
【経営理念:グローバル・マーケット・シェアの圧倒的拡大による、ステークホルダーの幸福最大化】
ヴァイパーが目を見開く。
「なっ……!?」
「どうです?
『世界』を『グローバル・マーケット』に。
『征服』を『シェア拡大』に。
『支配』を『幸福最大化』に言い換えました。
……これなら、どこのグローバル企業でも掲げている、極めて健全なスローガンでしょう?」
ヴァイパーは絶句し、慌てて聖法全書のページをめくった。
紫色のオーラが文字の上を走査するが……警告反応(アラート)は出ない。
「……くっ。条文上の違法性は……検出されない……だと?」
「中身などどうでもいいのです。重要なのは『文言(テキスト)』が法に適合しているかどうか。
……違いますか、元弁護士先生?」
かつて彼が私に放った言葉を、そのままお返しする。
ヴァイパーのこめかみに青筋が浮かんだ。
彼はギリと歯噛みすると、バタンと聖法全書を閉じた。
「……チッ。相変わらず、可愛げのない男だ」
「お褒めいただき光栄です」
「いいでしょう。定款の変更は認めます。……ですが」
ヴァイパーは帰り際、蛇のような冷たい視線を投げかけた。
「これは前哨戦に過ぎませんよ。
次は、貴社の『役員』と『資産』について、徹底的に監査させていただきます。
……特に、あの火を噴くトカゲと、地下に隠している『人権侵害の塊』についてはね」
彼は不敵な笑みを残し、紫色の霧と共に姿を消した。
部屋に残された「法的圧力」の余韻が、重くのしかかる。
「……ふぅ。やれやれ」
私は眼鏡を外し、目頭を押さえた。
物理攻撃ならガントが防いでくれる。だが、この手の攻撃は私が全て受け止めるしかない。
「ねえクリフ。今の言い換え、パパ(魔王)が聞いたら怒るんじゃない?」
アリスが心配そうに尋ねる。
私は即答した。
「大丈夫です。『横文字にしただけで、意味は同じです(嘘)』と説明しておきますから」
だが、ヴァイパーの最後の言葉が気になる。
役員の監査。
……まずい。うちには一人、口を開くだけで株価を暴落させる「コンプライアンスの爆弾」がいる。
「アリス。緊急役員会議を招集してください。
ヴォルカノスに、社会のルールを叩き込みます」
(続く)
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