国会議事堂、大会議場。
つい先ほどまで怒号と悲鳴が渦巻いていたその場所は、今は不気味なほどの静寂に包まれていた。
床には破られた法案、腐ったトマト、そして逃げ惑う議員たちが脱ぎ捨てた靴が散乱している。
まさに「祭りのあと」──いや、国家の威信が崩れ去った廃墟だった。
その演壇に、ただ一人。
紫色のスーツを着た男、ヴァイパーが立ち尽くしていた。
「……終わった、か」
彼は力なく呟き、手にした聖法全書を閉じた。
増税法案は廃案。国営公社は事実上の解体。
そして、この暴動を招いた責任者として、彼の政治生命は完全に絶たれた。
「……笑いに来たのですか、クリフ・オーデル」
ヴァイパーは振り返らずに言った。
議場の入り口に、私が立っていたからだ。
「笑う? まさか」
私はコツコツと靴音を響かせ、瓦礫の山を越えて演壇へと歩み寄った。
「私は貴方を『評価』しに来たのです」
「……評価?」
ヴァイパーが自嘲気味に笑う。
「買いかぶりですね。私は負けた。
貴方の言う『経済の論理』とやらに、完膚なきまでに叩きのめされた敗北者ですよ」
「いいえ。貴方が負けたのではありません」
私は演壇の前に立ち、彼を見上げた。
「負けたのは『王国』です。
貴方は優秀な法律家であり、優れた戦略家でした。
ただ……『クライアント(雇い主)』が悪すぎた」
私は周囲に散乱する議員たちの痕跡を指差した。
「彼らを見てください。
貴方が必死に法を整備し、予算を捻出して守ろうとした連中の末路を。
……彼らには、貴方の高度な戦略を理解する知能も、断行する覚悟もなかった」
ヴァイパーの眉がピクリと動く。
「……確かに。彼らは無能な豚でしたよ。
ですが、私はその豚に雇われた番犬に過ぎない」
「番犬にも、飼い主を選ぶ権利はあります」
私は懐から一枚の書類を取り出し、ヴァイパーに差し出した。
それは「雇用契約書」だった。
「単刀直入に言いましょう。
ヴァイパーさん。……我が社に来ませんか?」
「は……?」
ヴァイパーが目を丸くした。
「魔王軍に入れと……?
正気ですか? 私はついさっきまで、貴方を社会的に抹殺しようとしていた敵ですよ?」
「ビジネスの世界では、昨日の敵は今日の友です。
それに、我々はこれから上場(IPO)という大一番を迎える。
そのためには、貴方のような『法の抜け穴を知り尽くした番犬』が必要なのです」
私は契約書の条件面を指差した。
【役職:最高法務責任者(CLO / Chief Legal Officer)】
【報酬:年俸1億マナ + ストックオプション(上場株の1%)】
「CLO……?」
「ええ。我が社の法務部門のトップです。
現在、上場審査において、王国政府からの嫌がらせ(行政指導)が予想されます。
それらを全て『適法に』跳ね返し、逆に相手を訴え返す……そんな汚れ仕事ができるのは、世界で貴方しかいない」
ヴァイパーは契約書を舐めるように見つめる。
年俸1億マナ。王国での報酬の10倍以上だ。
だが、彼が反応したのは金銭ではない。
「……『ストックオプション』。
つまり、会社の株価が上がれば、私の資産も増える……一蓮托生のパートナーになれと?」
「その通りです。
王国という『沈む泥船』で、無能な船長(議員)と心中するか。
それとも、魔王軍という『高速船』に乗り換え、自らの腕で舵を取るか」
私は手を差し伸べた。
「選びなさい。
貴方のその美しい『法の論理(ロジック)』を、腐った政治のために浪費するのか。
それとも、正しく稼ぎ、正しく勝つために使うのか」
長い沈黙が流れた。
ヴァイパーは閉じていた瞳を開け──そして、口元をニヤリと歪めた。
「……フフッ。いいでしょう」
彼は懐から万年筆を取り出し、契約書に流れるようなサインをした。
「いわゆる『リボルビング・ドア(回転ドア)』というやつですね。
規制する側(役人)から、規制される側(民間)への華麗なる転身……。
倫理的には最悪ですが、実利的には最高だ」
彼は私の手を握り返した。
その手は冷たいが、確かな力が込められていた。
「契約成立です。
……ただし、私の使い方は難しいですよ?
何しろ、私は『毒蛇』ですからね。扱いを間違えれば、飼い主にも牙を剥きます」
「構いません。毒も使いようによっては薬になる。
……歓迎しますよ、ヴァイパーCLO」
◇
その時。
議場の入り口から、冷ややかな声が飛んできた。
「……呆れた。まさか、その場で『転職』を決めるなんてね」
瓦礫を踏みしめ、ヒルダが歩み寄ってくる。
その目は、ゴミを見るように冷徹だ。
彼女は、魔王軍への就職を決めたヴァイパーを一瞥し、鼻を鳴らした。
「地に落ちたわね、ヴァイパー。
王国を見限るのは勝手だけど……よりによって『魔王軍』の犬に成り下がるとは」
「犬ではありませんよ、ヒルダ統括官」
ヴァイパーは、不敵に笑い返した。
「『番犬(ウォッチドッグ)』です。
これからは私が、彼らのコンプライアンスを徹底管理します。
……つまり、貴女が付け入る隙(脱税のチャンス)は、二度と生まれないということです」
「……ふん。口だけは達者ね」
ヒルダは私の方に向き直り、鋭い指先を突きつけた。
「クリフ。勘違いしないでちょうだい。
今回、貴方に協力したのは『正義(脱税の摘発)』のため。
貴方たちと仲良くするつもりなんて、これっぽっちもないわ」
彼女の片眼鏡(モノクル)が、ギラリと殺気を放つ。
「むしろ、逆よ。
あの『毒蛇』を飼うというなら、今後はさらに厳しく監視させてもらう。
……もし1マナでも計算が合わなければ、今度は貴方たちの城に『赤紙(差押令状)』を貼りに行くから。覚悟しておきなさい」
「ええ、肝に銘じます。お手柔らかに」
私が涼しい顔で答えると、ヒルダは真紅のコートを翻し、部下たちを引き連れて去っていった。
背中越しに、「全員、撤収! 次は議員たちの隠し口座を洗うわよ!」という怒号が聞こえる。
あくまで敵。あくまで監査官。
そのブレない姿勢こそが、彼女の怖さであり、信頼できる点でもある。
ヴァイパーが肩をすくめる。
「彼女は有言実行の女です。
……クリフさん。私の最初の仕事は、彼女に『完全無欠の決算書』を叩きつけて黙らせることになりそうですね」
「期待していますよ、ヴァイパーCLO」
こうして、魔王軍に最強にして最悪の「法の番人」が加わった。
だが、それは同時に「国税局」という最強の監視者が、目を光らせ続けることを意味していた。
緊張感の漂う握手。
元・王国特別顧問ヴァイパーの手引きにより、上場審査の最終局面──「行政との闘い」が幕を開ける。
(続く)
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