その日、王都近郊の森は、針で刺すような緊張感に包まれていた。
騎士団長レオンは、一人で森を歩いていた。
彼の周囲だけ気温が極端に低く、草木が霜を纏ってカサカサと乾いた音を立てる。
彼が放っているのは、魔物すら裸足で逃げ出すほどの濃密な「殺気」だった。
だが、その理由は魔物討伐ではない。
彼の顎(あご)にある。
今朝の髭剃りの際、手元が狂ってつけてしまった――わずか5ミリの切り傷。
(……不覚。一生の不覚だ)
喉の奥に広がる、微かな鉄の味。
「氷の貴公子」と謳われる自分が、カミソリ負けで血を滲ませているなど、あってはならない失態だ。
誰にも見られてはならない。
だからこそ、彼は人を寄せ付けないよう、全力の殺気(拒絶)を撒き散らしていたのだ。
ガサッ。
茂みが揺れた。
レオンは鋭い眼光でそこを睨みつける。
「……誰だ。去れ。今の私は機嫌が悪い」
現れたのは、ボロボロの服を着た猫耳の少女――ミミだった。
薬草採りの最中なのだろう。泥だらけの手で籠を持っている。
レオンの殺気を受け、彼女の猫耳がピクリと震えた。
普通の人間なら、このプレッシャーだけで泡を吹いて気絶するはずだ。
しかし。
少女は逃げなかった。
それどころか、琥珀色の瞳を潤ませ、おずおずと近づいてくるではないか。
(……なんだ? 私の『絶対氷壁(威圧)』が通じないだと?)
レオンが警戒して剣の柄に手をかけた、その時。
ミミが目の前に立ち、小さな手を伸ばしてきた。
「……いたいの、いたいの……」
彼女はポケットから、ドロリとした粘液を滴らせる緑色の葉っぱ(雑草)を取り出した。
鼻を突く青臭い匂い。
ペタン。
レオンが反応するよりも速く。
その葉っぱが、顎の傷口に押し当てられた。
「……とんでけー!」
フゥーッ。
少女が、柔らかな唇を尖らせて息を吹きかける。
甘いミルクのような香りの吐息が、ヒリヒリする傷口を撫でた。
ドクン。
レオンの心臓が、早鐘を打った。
冷え切っていた体に、熱湯を注がれたような衝撃。
痛みは消えていた。
代わりに、葉っぱの粘着質な感触と、彼女の体温だけが、焼き印のように肌に残る。
「……えへへ。これでもう大丈夫だよ! おじさん!」
ミミは満面の笑みを浮かべると、パタパタと手を振って森の奥へ去っていった。
残されたレオンは、呆然と立ち尽くしていた。
顎に、変な粘液まみれの雑草を貼り付けたままで。
「……『おじさん』……?」
その言葉すら、今の彼には「聖なる洗礼名」のように響いていた。
彼は震える手でインカムを起動した。
報告しなければならない。
この、胸を焦がす未知の「熱病」について。
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【極秘通信ログ:暗号化回線(Level 5)】
送信者:レオン(騎士団長)
受信者:ゼル(宮廷魔導師)
レオン:
緊急事態だ。ゼル、応答しろ。
森で未知のS級精神干渉を受けた。
ゼル:
……団長ですか?
今日は非番のはずでは。
「精神干渉」とは? 貴方の精神耐性は竜の咆哮すら無効化するはずですが。
レオン:
突破された。
無詠唱、かつ物理接触だ。
対象は猫人族の少女。推定年齢14歳前後。
彼女は私の『殺気』の結界を、「痛みを堪える震え」と誤認して接近してきた。
ゼル:
誤認……?
いえ、それは高度な偽装(ブラフ)の可能性がありますね。
貴方の隙を突くための計算でしょう。
で、何をされたのですか? 刺されましたか?
レオン:
封印を施された。
顎の傷口に、未知の魔力を含んだ「緑色の術式媒体(葉っぱ)」を貼られた。
粘着性が異常に高い。剥がそうとしても指に絡みついて離れない。
これは……「隷属の契約印」かもしれん。
ゼル:
……はぁ。(ため息)
ただのネバネバした雑草では?
解析班を回しましょうか?
レオン:
いや、待て。
もっと恐ろしい攻撃を受けた。
彼女は術式発動の際、呪文を唱えた。
「イタイノ・イタイノ・トンデケー」……古代語魔法か?
直後、口から「絶対零度のブレス(フゥーッ)」を至近距離で浴びせられた。
ゼル:
……団長。
それは一般的に「おまじない」と呼ばれる行為です。
幼児がよくやるやつです。
レオン:
違う!!
現に、私の心臓が痛い!!
ブレスを受けた瞬間から、動悸が止まらないんだ!
熱い……胸が焼けるように熱い。
これは遅効性の猛毒か!? それとも心臓掌握の呪いか!?
ゼル、今すぐ文献を当たれ! このままでは私が私でなくなってしまう!
ゼル:
……。
(こいつ、チョロすぎませんか?)
ゼル:
わかりました。
その少女、非常に危険な「魔女」の可能性がありますね。
精神支配(マインド・コントロール)の使い手かもしれません。
私が直接出向く前に、まずは「目」を送りましょう。
レオン:
目?
ゼル:
暗殺ギルドの長、シャドウです。
彼なら、感情に流されることなく、その少女の正体を冷徹に見極められるでしょう。
もしクロなら、その場で処理させます。
レオン:
待て!!
殺すな!!
もし彼女に傷一つつけたら、俺がシャドウを殺す!!
ゼル:
(……もう手遅れですね、この人)
[System Alert] —————————–
Mission Order Issued:
Target: Unknown Cat-girl
Agent: Shadow (Assassin Guild Master)
Objective: Surveillance & Assessment
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